島原の乱と天草四郎の生涯についてのまとめ!?名言や逸話も紹介
天草四郎は江戸時代に起きた島原の乱の指導者とされています。伝説的なエピソードも多く、謎に包まれた人物です。今回は天草四郎の生涯、名言、逸話について紹介していきます。

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天草四郎とは?


(競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作) 出典 Wikipedia)

天草四郎は幼い頃から熱心にキリスト教を勉強する等、優れた教養を持っていました。島原の乱において、カリスマ性から総大将に祭り上げられます。幕府に対して3ヶ月にも及ぶ篭城戦を行いますが敗北します。

美少年だったという説や、悲劇性から多くの題材となっている人物です。

本名

本名は増田四郎、諱は時貞(ときさだ)と言います。天草四郎時貞と呼ばれる事もあります。

出身地

天草四郎は天草諸島の大矢野島に生まれたと言われています(他にも長崎や肥後の説あり)。大矢野島はは1566年に宣教師ルイス・デ・アルメイダが布教に訪れており、元亀元年(1570年)には1万5千人の信者がいました。後にキリシタン大名の小西行長がこの地を治めており、キリスト教の影響が強い地域でした。

生没年月日

生年は1621年と1623年の説が有力です。

島原の乱最後の原城の陥落の際に亡くなっており、没年は1638年4月12日です。

年齢は不明ですが15〜17歳位に亡くなっていますね。

天草四郎は実在した人物︎!?

神がかったエピソードから、非実在説もあります。天草四郎は複数の少年からなるグループの事を指しているという説が2015年に熊本大学名誉教授 吉村豊雄氏によって提唱されました。理由として一揆を収めた幕府が天草四郎の首を持ってこさせた時に、背格好の似た少年の首が複数集まった事が挙げられます。

この説自体は幕府が天草四郎を知らなかったと言う事で説明はつきますし、天草四郎の母親がとある首を見て泣き崩れたと言うエピソードがあります。

天草四郎という人物が存在していないのではなく、一揆の神輿として祭り上げられた人物自体は存在していたと思われます。

この点は神格化されたエピソードが多く残るが、実際の業績には不明な点が多い厩戸皇子(聖徳太子)に近いと思われます。

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天草四郎の人生年表と生涯

年表

元和7年(1621年)or元和9年(1623年) 誕生
寛永7年〜寛永13年(1630年〜1636年) 手習いや学問を習いに長崎に何度か訪れる
寛永14年(1637年) 島原の乱
寛永15年(1638年) 城内にて斬首される


(小西行長 落合芳幾画 出典 Wikipedia)

生涯

天草四郎の父親は、キリシタン大名の小西行長の右筆として仕えた益田好次だと言うのが有力です。

小西行長は関ヶ原の戦い後に斬首されます。主君のいなくなった増田好次は浪人として肥後国宇土に移り住みます。

母の陳述によると、天草四郎は宇土で成長し、学問修養のために何度か長崎を訪れていたそうです。キリスト教には長崎で入信したと言われています。

その後島原の乱の総大将となり、江戸幕府を追い詰めますが、多勢に無勢となり敗北します。天草四郎は文献にもあまり記載がなく、乱の前に分かる事は少ないです。

島原の乱とは?

乱の発端


(松倉重政像 出典 Wikipedia)

島原の乱が起きた背景は関ヶ原の戦い後の処理まで遡ります。

島原では関ヶ原の戦い後、キリシタン大名だった有馬氏が転封し、1614年に松倉重政・勝家親子が島原の地を治めます。彼らは従来あった原城を取り壊し、島原城を作る為に数多くの人夫を動員します。当時の島原の石高は4万3千石でしたが、松倉親子は10万石に匹敵する城を作ります。その為過酷な年貢の取り立てが始まりました。

1621年には江戸幕府のキリシタン弾圧政策に従い、天草のキリシタン達の弾圧を開始。顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行いました。

天草では小西行長が斬首された後、寺沢広高が入部。その際に石高を4万2千石と判断しますが、実際にはその半分であり、島原同様に重税を課します。こちらでもキリシタンの弾圧が行われていました。 島原の乱はキリシタン弾圧に耐えかねた宗教戦争と思われがちですが、重税による一揆の側面も大きいのです。

乱の勃発


(湯島全景 出典 Wikipedia)

1634年から九州では酷い凶作が続きますが、年貢の量は変わらない為、餓死者が現れる程でした。1637年には島原の湯島(談合島)で一揆が計画されます。この時にキリシタンの中でカリスマ的な人気のあった天草四郎を総大将にする事が決まります。

寛永14年10月25日(1637年12月11日)島原では代官が殺害され、乱が始まります。島原藩は討伐軍を派遣しますが一揆の勢いに押され敗北。天草でも一揆が始まり、富岡城代の三宅利重を討ち取ります。しかし幕府から大量の討伐軍が来る事を知り、有明海を渡り島原の一揆と合流して原城に立て篭もります。この時の一揆軍は3万7千人と言われています。

一揆軍は幕府の総大将板倉重昌を倒す等の活躍を見せますが、12万人とも言われる幕府軍には敵わず包囲されます。結果一揆軍は籠城を選択。3ヶ月に渡り戦い抜きます。

幕府軍は天草四郎の母と姉妹生け捕りにし、彼女らに降伏の手紙を書かせますが、一揆軍は拒絶します。

乱の最後


(原城包囲の図 出典 Wikipedia)

寛永15年2月28日(1638年4月12日) 討伐軍による総攻撃により原城は落城します。この時既に弾薬も食糧も尽きていたようです。幕府軍により老若男女問わず全滅しました(内通役の1名のみ生存は確定。後はこっそり脱出した人もいたようですが)

ちなみに天草四郎を始めとした乱の犠牲者は殉教者には数えられていません。乱の発端が圧政に対する百姓の一揆によるものと考えられているからです。
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天草四郎の死因


(マリア観音 出典 Wikipedia)

原城が総攻撃された後、陣佐左衛門が城を捜索中、銃に撃たれた少年と、泣きながら世話をする女がいたそうです。逃げようとした少年を佐左衛門が、女を三宅半右衛門が斬りました。

幕府軍には天草四郎の顔や容姿は伝わっておらず陣にはおびただしい少年の首が届けられましたが、天草四郎と断定する事は出来ませんでした。

陣佐左衛門が斬った首を生け捕りにしていた天草四郎の母に見せたところ、その場で泣き崩れた為、それを天草四郎と断定しました。

ちなみに母は泣き崩れたものの、最後までその首が天草四郎のものと言いませんでした。本当にあの首は四郎のものだったのか」と言う憶測は乱の直後から囁かれていました。天草四郎は原城から逃げ延び、フィリピンのルソンに渡ったと言う説があります。

天草四郎の人物エピソード


(原城虎口遺構 出典 Wikipedia)

洗礼名

キリスト教に入信する際に、洗礼として名前が名づけられますが、天草四郎の洗礼名はジェロニモです。

白人との抵抗戦として有名なアパッチ戦争で活躍した戦士の名前がジェロニモであり、天草四郎に通じる部分がありますね。

ちなみに天草四郎は2回洗礼を受けており、島原の乱の時の名前はフランシスコと言います。

人間だった天草四郎

島原の乱の最中、原城には砲台による攻撃が起こります。弾は天草四郎の袖を貫いたそうです。この攻撃で、「四郎は不死身だ」と信じていた一揆軍の人たちに動揺が広がったと言われています。天草四郎が人間であったと分かった時、既に勝敗は決まっていたのかもしれません。

天草四郎の逸話と伝説


(豊臣秀頼像 出典 Wikipedia)

天草四郎には数々の伝説的なエピソードが残っています。

ママコスの予言

宣教師ママコスは天草〜長崎で布教活動をしていましたが、1613年にマカオに追放されます。その時に「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学をを極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし」と伝えたそうです。

この予言に出てくる若者=天草四郎と考えられたのは、五々の数=5×5で25年後(島原の乱の起きた1637年と重なる)と言う事と、語学を極めたと言う点(天草四郎は教養に優れていた)からです。

天草四郎の誕生は1621年or1623年なので、若者一人出生すべしと言うは解釈の分かれる部分ですが‥。もしくは出世=島原の地にやってくると言う意味かもしれません。

ともかくこの予言の元、信者達はその時を耐え忍びながら待っていたとの事でした。

神がかりなエピソード

・盲目の少女に触れると視力を取り戻した

・海面を歩いた

・四郎が祈ると一羽の鳩が天から舞い降り、卵を産んだ。その卵の中から聖書が出てきた。

・スズメに呪文をかけると動かなくなり、四郎がそのスズメを持ち帰った

等 神がかりなエピソードが多く見られます。

これらはイエスキリストが起こした奇跡として、新約聖書の4つの福音書に書かれているものと似ています。聖書の内容を参考にして、天草四郎を神格化する為に創作されたもの という見方が強いです。

秀頼の御落胤

天草四郎が豊臣秀頼の隠し子という説があります。秀頼自体も大坂夏の陣で死なず、一説では豊臣秀頼が大阪城から脱出し、鹿児島で生き延びたという言い伝えが残されています。天草四郎がその子孫だと言うのです。

理由として
・天草四朗の馬印が豊臣秀吉と同じ千成瓢箪である事。
・薩摩の書物では天草四郎の事を豊臣秀綱という名前で記しているものがある。

・小西行長は秀吉の家臣でる

等が挙げられます。真相は定かではありません。悲劇のヒーローである天草四郎がどうか生きていて欲しいと言う気持ちがこう言う説を提唱しているのかもしれません。

天草四郎の名言


(大矢野島の北東部 出典 Wikipedia)

天地同根万物一体、一切衆生不撰貴賤
『天も地も根は同じで、全ての物は一体である』当時の身分社会において天草四郎は皆に平等に接したと言われます。この名言は談合島の記念碑に刻まれています。

いま籠城している者たちは、来世まで友になる。
天草四郎は文献には殆ど情報がなく、彼の言動等は謎に包まれており、名言は殆ど残っていません。乱の生き残りが伝えたものだと思われます。最期まで抗戦した者へ労いと、感謝の気持ちが現れています。彼がきっと優しい人だったとわかる名言です。

死ぬ事で神の御許へ旅立つ事が出来る事から、生き残り達は兵士達に喜んで殺されたとの事です。その姿に兵士は恐怖したと言います。

天草四郎にゆかりの地


(城郭遺構 出典 Wikipedia)

湯島(談合島)

島原の乱の前に、島原と天草の一揆の計画を練る為に集まった場所です。天草と島原の間にある小さな島です。ここで総大将の天草四郎が誕生します。
離島なので上天草市大矢野町にある江樋戸(えびと)港から1日5往復している定期連絡船を利用します。ここは人口は330人程、猫が200匹程住んでおり、猫の島とも呼ばれています。

天草四郎の首や胴体は何処に埋葬されたかは不明です。墓は2箇所ありますね。

天草四郎公園
1箇所目は天草四郎の生家跡に出来たと言われる天草四郎公園内にあります。公園の中央には片手を上げた像があり、その後ろには「天草四郎之墓」と書かれた墓があります。こちらは慰霊碑に近いと思われます。

原城
前述した島原の乱の終焉の場所です。原城は既に廃城となり、跡地のみです。この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。墓碑は天草四郎の母が作ったと言われますが真偽は不明です。こちらの方が墓としては信憑性が高いですね。

記念碑

天草四郎乗船の地
場所は天草郡苓北町です。この地から天草四郎一行は島原へ渡ったと言われています。昭和48年に記念碑が作られ、記念写真を撮る観光客が多くいるそうです。

記念館


(天草四郎ミュージアム 出典 Wikipedia)

天草四郎ミュージアム
場所は上天草市大矢野町です。天草四郎の他、島原の乱の詳細や、当時の南蛮文化についても詳しく書かれています。秋月藩に伝わる「島原の乱図屏風」を再現したジオラマや、乱について分かりやすく伝える映像もありますよ。

天草四郎の妻や、子供、子孫について


(天草四郎が使ったとされる旗印(天草切支丹館所蔵)出典 Wikipedia)

記録では天草四郎は有家監物の娘と結婚していたとされています(天草陣雑記)。監物はキリシタン大名の有馬晴信に仕えた人物で、島原の乱では実質的な総大将の地位にありました。

信憑性の高い資料に記されており、妻がいた事は恐らく間違いないですが、それ以外の記載はなく詳細は不明です。もしかしたら殺された時に隣にいた女が妻だったのかもしれません。

子どもや子孫について

天草四郎には姉がおり、姉は結婚して息子もいました。なので甥っ子は存在していたようです。しかし天草四郎の一族(父母、姉、妹、甥)は皆戦死か処刑されています。隠し子でもいない限りは天草四郎の子どもや子孫はいないと思われます。

天草四郎を題材にした作品


(山田風太郎 出典 Wikipedia)

その悲劇性から多くの作品が作られています。イケメン説もありますが、文献には容姿の事は記載がなく不明です。肖像画は天正遣欧使節の絵などがモデルと言われています。

小説

天草四郎の犯罪
西村京太郎の小説。島原の乱を下敷きにした長編推理小説であり、犯人の名前こそ天草四郎ですが、全くの別人です。

他には
・嶽本野ばら 「デウスの棄て児」
・立松和平の奇蹟:風聞・天草四郎
・木村天山 天草四郎
等の小説がありますね。

魔界転生 山田風太郎が1964年から大阪新聞に連載し、ヒット作となります。森宗意軒と言う小西行長の遺臣が由井正雪と出会い、徳川幕府に復讐するストーリー。その中で蘇った剣豪の一人として天草四郎が登場。中盤で十兵衛によって倒されています。異色の作品です。

映画

魔界転生 こちらは小説を映画化したものですが、実質天草四郎が主役となり、徳川幕府に復讐を誓う魔神として描かれています。

1981年では沢田研二さんが演じ、男女問わず妖艶な雰囲気で魅了する青年として登場しています。2003年には窪塚洋介さんが演じています。1981年以降、映画・演劇・漫画化しますが、小説とはほぼ別物と考えて良いです。

島原の乱(中公新書) 神田千里
島原の乱をキリシタンの殉教戦争でなく、農民の視点から描いたものです。キリシタンの行った様々な事柄が書かれており、天草四郎についても見方が変わるかもしれません。

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街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫) 司馬遼太郎
司馬遼太郎は小説だけでなく紀行文も書いています。こちらは天草の道を歩き、感じた事が書かれています。キリシタンへの弾圧や、原城の跡地に思い巡らせる、司馬遼太郎のイメージも変わるかもしれませんね。

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参考文献

島原の乱(中公新書)

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