安藤百福の生涯と人物像とは?死因・名言・子孫も

安藤百福は実業家とした日清食品を創業し、チキンラーメンやカップヌードルなどを開発した人物です。私達が何気なく食べているインスタントラーメンですが、その開発過程には様々な試行錯誤がありました。

インスタントラーメンは大好きでもその開発者である安藤百福については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。彼は96歳で亡くなる前日まで働き続けた努力の人でした。今回はそんな安藤百福の生涯や人物像について解説していきます。

安藤百福とは?

安藤百福とは?

晩年の安藤百福 出典:Wikipedia

 

安藤百福は1910年に日本統治時代の台湾で生まれ、出生名を呉百福と言います。戦後の1948年に日清食品の前身となる中交総社を創設し、1958年にチキンラーメン、1971年にカップヌードルを開発しました。これらは爆発的なヒットを飛ばし、日本のみならず世界の食品開発に多大なる影響を与えます。

その後も世界ラーメン協会会長や(社)日本即席食品工業協会会長などの要職を歴任しつつ、96歳で亡くなりました。

氏名 安藤百福(出生名は呉百福)
通称・あだ名 インスタントラーメンの創設者
出生日 1910年3月5日
出生地 台湾(嘉義庁樸仔脚)
死没日 2007年1月5日
死没地(亡くなった場所) 市立池田病院
職業 実業家
配偶者 黄綉梅・呉金鶯・安藤仁子
座右の銘 食足世平(食足りて世は平らか)

 

安藤百福の人生年表・生涯

安藤百福の人生年表

出来事
1910年 誕生
1924年 高等小学校を卒業
1933年 繊維会社「東洋莫大小」を設立
1941年 幻灯機の製造、バラック住宅の製造に従事
1948年 中交総社を創設
1948年 GHQに脱税の容疑をかけられる
1958年 チキンラーメンを開発
1971年 カップヌードルを開発
1981年 社長の座を長男に譲る(後に社長に復帰)
1985年 社長の座を次男に譲る
1987年 麺ロード調査団を結成
2002年 創業者会長に就任
2007年 97歳で死去

 

安藤百福の生涯①

安藤百福の生涯①

安藤百福の出身地である朴子市 出典:Wikipedia

 

安藤百福は1910年3月5日、日本統治時代の台湾で生まれます。元々の名前は呉百福(ゴー・ペクホク)であり、1966年に帰化しました。14歳で高等小学校を卒業してから祖父の繊維問屋を手伝うなどして生活していました。

1932年に台湾の永楽市場で繊維会社である「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立し、財を成しています。メリヤスとは編み物の古い呼び方になります。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本に移り住み、幻灯機の製造、バラック住宅の製造を開始。軍需工場を経営し、日本の戦備調達に貢献しました。日本国内で活躍した安藤百福ですが、当時は台湾国籍であった事から憲兵隊に拘束され、拷問を受ける事もあったのです。

幸い45日ほどで釈放されるものの、一連の拷問で深刻な内臓疾患を発症し、後に二度も手術をしています。やがて日本の敗戦が濃厚になると、安藤百福は兵庫県の上郡町に疎開。野焼きの仕事で整形を立てて過ごしました。

安藤百福の生涯②

安藤百福の生涯②

安藤百福が収監された巣鴨プリズン 出典:Wikipedia

 

1945年8月に日本が敗戦を迎えると、安藤百福は兵庫県から大阪に戻ります。1948年に「中交総社」(後の日清食品)を設立し、専門家の研究のもとで牛や豚の骨からタンパク質エキスを抽出する方法などを開発。パンに塗るペースト状の栄養食品・ビセイクルの製造なども行いました。

ただ当時はGHQが影響力を持っていた時代。安藤百福は12月にGHQに脱税の嫌疑をかけられて4年間の重労働の刑を受けています。安藤百福が訴訟を起こそうとした為、安藤百福は釈放されますが、収監中に事業を整理しており事業家としての人生は振り出しに戻ります。

信用組合の大阪華銀の理事長になる事もありましたが、1957年に大阪華銀は破綻。「いよいよ無一文になった」と安藤百福は述べています。それでも安藤百福は諦める事はなく、「ある事」に挑戦するのでした。

安藤百福の生涯③

安藤百福の生涯③

安藤百福ゆかりの地・大阪府池田市 出典:Wikipedia

 

安藤百福は大阪府池田市の自宅に小屋を建て「インスタントラーメン」の製造に取り組みます。試行錯誤を重ね、1年かけて開発したのが「チキンラーメン」でした。チキンラーメンは1958年8月25日に販売が開始され、ある日突然爆発的に売れるようになり、安藤百福は実業家としての再起を果たします。なお、この年に安藤百福の会社は「日清食品株式会社」に商号変更されています。

ただインスタントラーメンがヒットするにつれ、擬似品が出回る事もありました。安藤百福は訴訟に備えるものの、最終的には業界の協調体制を整える為、1964年に社団法人日本ラーメン工業協会を設立する事で合意。安藤百福は同協会の会長に就任しています。

更に安藤百福は1966年からカップヌードルの製造に取り組みます。様々な試行錯誤を経て商品が販売されたのが1971年。カップヌードルが爆発的にヒットしたのは、1972年の「あさま山荘事件」で山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べていた事がきっかけでした。

なお、このヒットをもとに「日清食品株式会社」は一部上場を果たしています。

安藤百福の生涯④

安藤百福の生涯④

日清食品ホールディングス株式会社 出典:Wikipedia

 

1981年に安藤百福は社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自分は会長に就任します。ただ経営方針の違いで長男は2年後に社長を退き、安藤百福は再び社長となっています。安藤百福が再び社長を退くのは2年後で、その時は次男の宏基にその座を譲りました。

安藤百福の情熱は衰えず、麺の追求の為に1987年に「麺ロード調査団」を結成。中国全土をめぐり300種類以上の麺を食べ歩いています。

1996年には食品業界のベンチャーを奨励する為に基金の設立を募り、2002年には宇宙食ラーメンの開発に着手。90歳を過ぎてもゴルフに1年に300回も通うほど、安藤百福は健康体を維持していたのです。

安藤百福の死因と最期の言葉

安藤百福の死因と最期の言葉

MOMOFUKU Noodle 出典:Wikipedia

 

安藤百福は2007年1月5日に96歳で亡くなりました。死の3日前に安藤百福はゴルフを行い、死の前日は仕事始めの日だった事もあり、30分間の訓示を述べています。その日の昼に餅入りのチキンラーメンを食べていますが、それが原因で肺炎になったのかもしれません。

安藤百福の最期の言葉は伝わっていませんが、長生きの秘訣として「週2回のゴルフと、毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と述べるのが日課でした。安藤百福は生涯ラーメンを愛し続けると共に現役を貫いたのです。

安藤百福の功績と偉業

チキンラーメンの開発

チキンラーメンの開発

チキンラーメン 出典:Wikipedia

 

安藤百福が最初に爆発的なヒットを飛ばしたのはチキンラーメンであり、販売を開始したのは1958年の事でした。安藤百福がインスタントラーメンの開発を決意したのは、戦後まもない大阪梅田の闇市でラーメン屋の屋台に並ぶ行列を見た時です。この時に安藤百福は「もっと手軽にラーメンを」と考えたそうです。

開発当初の安藤百福は事業に失敗していた頃であり、まさに起死回生の一品でした。インスタントラーメンを開発する上で安藤百福は「美味しく飽きがこない」「保存性に優れている」「
調理が簡単」「安価」「安全で衛生的」の5つを挙げ、1年の開発期間を経て生まれたのがチキンラーメンだったのです。

1958年に日本で販売が開始された時、価格は35円とやや高価でした(当時はうどん玉6円、乾麵25円)。ただチキンラーメンはやがて大ヒット商品となり、1963年に安藤百福が経営する日清食品は東証第二部に昇格を果たします。この商品が日本の食品メーカーに与えた影響は大きく、様々な疑似商品が出回る程でした。

安藤百福はチキンラーメンを昼食に食べる事を習慣にしており、それは亡くなる前日まで続いたそうです。

カップヌードルの開発

カップヌードルの開発

カップヌードル 出典:Wikipedia

 

安藤百福がカップヌードルを日清食品から販売させたのは1971年の事でした。開発を開始したのは1966年。安藤百福がチキンラーメンの海外進出を図る為にアメリカを訪れた時、アメリカ人バイヤーがチキンラーメンを紙コップに入れて食べた事に着想を得た事がきっかけでした。

容器や具材などの試行錯誤を重ね、カップヌードルは完成します。当初は高額で販売数は伸び悩むものの、前述した通りあさま山荘事件の影響もあり、商品は大ヒット。現在では世界80カ国以上に普及しています。2021年8月には500億食を達成する等、1970年代を代表する発明品となりました。

安藤百福はこれらの発明を経て、2006年のタイム誌で「60年間のアジアの英雄」の一人に選ばれました。

安藤百福の性格と人物像エピソード

不屈の精神を持つ男

不屈の精神を持つ男

タイムズスクエアに設置されていた看板 出典:Wikipedia

 

安藤百福はとにかく不屈の精神を持つ人物だったといえます。戦前に憲兵隊に冤罪で拘束されても、調書への調印を拒否。後に手術が必要な身体になろうとも自らの潔白を主張しました。チキンラーメンの開発を始めたのは1957年で、事業が躓いていた時の事です。

90歳になろうとも日々の日課を欠かさず、死の3日前にはゴルフをしています。何歳になろうとも、たとえ財産を失った時でも彼は自身の生き様を貫いたのです。安藤百福は「転んでもただで起きるな。そこらへんの土でも掴んでこい」という名言を残しています。不屈な精神力こそが、彼の性格の本質だと言えるでしょう。

カップライスの失敗

ちなみに「転んでもただで起きるな。そこらへんの土でも掴んでこい」という格言ですが、それを体現するような出来事があります。それが1974年に販売された「カップライス」です。

カップライスはカップにお湯を注ぎ、湯を切って数分待つ事で米料理が出来上がるというもの。開発当初は政治家や食糧庁職員も絶賛し、マスコミも「奇跡の食品」とカップライスを絶賛しました。ただ蓋を開けてみれば高価な点や味の問題などからカップライスは思うように売れません。

安藤百福は年間の利益に相当する30億円を投じ、設備投資を行なっていましたが、カップライスの撤退を判断。カップヌードルの大成功も束の間、安藤百福は転んでしまったのでした。

撤退を余儀なくされたカップライスですが、その製造方法は「湯切り」をする事で美味しく出来上がる「日清ラ王」に生かされました。ラ王もまた日清食品のベストセラーとして長きに渡り君臨。まさにカップライスの失敗を新たな成功に繋げたのでした。

安藤百福の逸話と凄さ

ニューヨーク・タイムズで死が慎まれる

ニューヨーク・タイムズで死が慎まれる

タイムズの旧本社ビル 出典:Wikipedia

 

安藤百福が96歳で亡くなった時、ニューヨーク・タイムズでそや死が慎まれました。新聞では「ミスターヌードルに感謝」と見出しが掲げられ「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」とその功績を絶賛したのです。

ちなみに安藤百福の社葬が行われた時の参列者は実に6500人。葬儀委員長は中曽根康弘元首相が務め、小泉純一郎元首相などの有力者も参列しています。安藤百福が財界や政界でも多くの人脈を持っていた事が分かりますね。

安藤百福の名言

安藤百福の名言

日清食品関東工場 出典:Wikipedia

 

安藤百福は敏腕経営者なだけあり、数えきれないほどの名言を残しました。その中で筆者が気に入っているものをいくつか掲載します。

目標を持ったら、あとは執念だ。

チキンラーメンにカップヌードルと、安藤百福は様々なヒット商品を生み出しましたが、それらは目標と執念により生まれたものでした。目標を持つことは大切ですが、それ以上に大切なのはそれを実現する為の執念です。仕事や日々の日常にも当てはまる名言と言えますね。

正義・誠実・正確の「三せい」を大切にしなさい。

安藤百福がチキンラーメンを開発した経緯は「皆から歓迎される商品を作る事」でした。それは紛れもなく正義であり、安藤百福の誠実さを現しているといえます。ただそれを実現するためには、優れた商品を生み出すための正確な技術が必要になります。だからこそ、安藤百福は三せいを大切にするべきと唱えたでした。

安藤百福の家系図・子孫

安藤百福の家系図・子孫

日清食品大阪本社 出典:Wikipedia

 

安藤百福は恋多き人物で、生涯に3人の妻がいました。これは台湾では1970年代まで一夫多妻制が認められていた事が要因です。ただこの家族関係は後の安藤家にいくつかの問題を引き起こす事になりました。

黄綉梅(1907-2011)

安藤百福の最初の妻であり、結婚したのは1928年の事でした。当時の台湾では幼女を買いとり、裕福な家庭で結婚させる習慣があったとされ、黄綉梅もそんな経緯から結婚する事になります。

1930年には長男・安藤宏寿が誕生し、彼は短期間ながら日清食品の社長に就任しています。黄綉梅はその後も台湾で暮らし、2011年に台湾の高齢者施設で104歳の大往生を遂げました。

呉金鶯(1919-1971)

安藤百福の第二夫人です。安藤百福の強い意向で結婚に至ったとされ、1938年に結婚。ただ夫婦関係はそれほど良好ではなかったようで、1945年に台湾に帰国。安藤百福から養育費などをもらいつつ軍人と再婚しますが、再び離婚しています。双極性障害を患ったとされ、1971年に52歳で亡くなりました。

二人の間には2男1女が授かったとされ、長女の呉美和は2019年時点では存命です。ただ安藤百福は彼女の事を公にしませんでした。生活は困窮している様子で、2019年時点では76歳という高齢でありなからホームレスとして暮らしているそうです。

安藤仁子(1917-2010)

安藤百福の3人目の妻であり、法律上は重婚とされています。福島県の名家の生まれであり、1945年3月21日に安藤百福と結婚しました。安藤百福は後に日本国籍を取得しますが、その際に安藤姓を名乗っています。

GHQの脱税容疑による拘束や、チキンラーメンの開発など、安藤百福が激動の日々を生きる中で彼を支え続けており、安藤百福の精神的な支えとなった女性です。2人の間には日清食品の社長となる安藤宏基が生まれました。現在の日清食品は安藤徳隆が就任していますが、彼は安藤百福の孫に当たります。

安藤百福の子孫たちは今も日清食品を支え、日本の食品界を牽引し続けているのです。

安藤百福のゆかりの地

安藤百福発明記念館 大阪池田

安藤百福発明記念館 大阪池田

安藤百福発明記念館 大阪池田 出典:Wikipedia

 

1999年に安藤百福のゆかりの地・大阪府池田市に建てられた記念館です。チキンラーメンが生まれた小屋が再現されている他、カップヌードルの改良と改革の歴史が展示。当施設は食育に力を入れており、食育と関連付けられた設備はかなり充実しています。

チキンラーメンが発売された8月25日は「ラーメン記念日」とされ、「ラーメン記念日フェスタ」などの様々はイベントも開催されています。

住所:大阪府池田市満寿美町8-25

安藤百福発明記念館 横浜

安藤百福発明記念館 横浜

安藤百福発明記念館 横浜 出典:Wikipedia

横浜みなとみらいにある安藤百福の記念館です。2011年に開設しましたが、これは安藤百福生誕100周年と、カップヌードル生誕40年を記念して作られたものでした。記念館のテーマは「クリエーティブ・シンキング=創造的思考」です。

安藤百福が探求した発明の楽しさや大切さを多くの人に知ってもらう為、五感に働きかけると共に大人から子供まで楽しめる内容になっています。CGや錯覚を駆使したアスレチックジムや世界8か国の麺類が食べられる屋台なども見所です。

住所:神奈川県横浜市中区新港2-3-4

安藤百福の関連人物

中曽根康弘

中曽根康弘

中曽根康弘 出典:Wikipedia

 

中曽根康弘は「戦後日本の総決算」を掲げた総理大臣で、安藤百福と親交がありました。前述した安藤百福の社葬で葬儀委員長を務めた他、2008年に安藤百福発明記念館 大阪池田で安藤百福の銅像が建てられた時に功績を称える碑文を書いています。

碑文には「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である」と書かれており、その気持ちの深さが伺えます。

安藤百福の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

魔法のラーメン発明物語―私の履歴書

安藤百福の自叙伝です。逆境に負けずにインスタントラーメンの開発を成功させたその秘話が余す事なく書かれています。彼がチキンラーメンを開発したのは47歳の頃です。人はいくつになっても諦めてはいけない。それを証明する一冊と言えるでしょう。

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安藤百福の生涯を漫画にした作品です。日常にありふれた物ひとつひとつに先人たちの苦悩と努力が込められている事がよく分かります。安藤百福が死去してから数年後に東日本震災が発生しましたが、被災地には200万食ものカップヌードルが届けられたそうです。そんな最近の話題にも触れられており、安藤百福の偉業が改めて分かる一冊です。

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まんぷく

2018年に放送された朝ドラで、安藤百福と妻・仁子のモデルが主人公になっています。戦前戦後を懸命に生き、栄養食品や即席麺の開発に励む二人の夫婦愛に胸が熱くなる内容です。チキンラーメンにまつわる訴訟問題など、当時の安藤百福が直面した問題にもしっかり触れられています。安藤百福の生涯を知る上でも良い作品と言えるでしょう。

まとめ

今回は安藤百福の生涯について解説しました。私達が当たり前に食べているインスタントラーメンは安藤百福の努力の結晶であり、日本のみならず全世界の食文化にも大きな影響を与えています。生涯現役を貫き、世のため人のために尽くした安藤百福。この記事を通じ、安藤百福に少しでも興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/安藤百福

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