新選組最強剣士!?永倉新八の生涯と人物像!功績・名言・死因・子孫は?

ドラマや小説で圧倒的な人気を誇る新撰組。「最強の剣士は誰か?」と議論される事も少なくありません。沖田総司や斎藤一に並び「最強の一角」と噂されるのが、新撰組の二番隊隊長だった永倉新八です。

彼は激動の幕末を生き延びると共に、新撰組の生き様を後世に語り継ぐ役目を果たした人物でもありました。今回はこの永倉新八の障害や人物像に迫っていきます。

永倉新八のプロフィール

永倉新八のプロフィール

(最晩年の永倉新八(前列中央) 出典:Wikipedia)

 

氏名永倉新八(本姓は長倉)
通称・あだ名がむしん
出生日天保10年(1839年)4月11日
出生地江戸下谷三味線堀(現・東京都台東区)
死没日大正4年(1915年)1月5日
死没地北海道小樽市
職業武士・剣術家
身長約160cm(五尺二、三寸)
配偶者杉村きね

永倉新八の人生年表・生涯

永倉新八の人生年表・生涯

(新撰組の旗 出典:Wikipedia)

 

永倉新八の年表

出来事
天保10年(1839年)誕生
弘化3年(1846年)神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門
安政3年(1856年)・元服
・剣術修行の為に脱藩
文久3年(1863年)浪士組に入隊 後に新撰組に編成される
元治元年(1864年)池田屋事件
慶応3年(1867年)油小路事件
慶応4年(1868年)戊辰戦争 土方歳三と袂を分かち、後に新政府軍に降伏
明治4年(1871年)きねと結婚し、養子となる
明治6年(1873年)北海道に渡る
明治15年(1882年)樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務める
明治32年(1899年)小樽に転居
大正4年(1915年)死去(享年77歳)

永倉新八の生涯①

永倉新八の生涯①

(試衛館跡地 出典:Wikipedia)

 

永倉は天保10年(1839年)4月11日に長倉勘次の次男として、松前藩の上屋敷(江戸下谷三味線堀)で誕生しました。兄は夭折し、長倉は長男として育てられます。幼少期から腕白な永倉はそのエネルギーを発散させるように、剣術で頭角を現していきました。

永倉は弘化3年(1846年)に神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。天性の才能を持っていた永倉はたちまち頭角を現します。しかし4年後に師匠の岡田利章(3代目岡田十松)が亡くなり、その後は岡田助右衛門に剣術を教わりました。永倉は安政3年(1856年)18歳で本目録という免許状を得ています。

同年に永倉は元服しますが、同時に家督を継ぐ時期が迫ってきました。「もっと剣術を極めたい」と考えた永倉は脱藩。江戸本所亀沢町にある百合元昇三の道場で更なる剣術を学びます。その後、永倉は剣術修行の為に関東一帯の道場をめぐった他、心形刀流の道場の師範代を務めています。

永倉は近藤勇が塾長を務める天然理心流「試衛館」の食客となり、近藤勇や土方歳三、沖田総司などと交流を深めました。

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永倉新八の生涯②


(清河八郎 出典:Wikipedia)

1853年にペリーが日本に現れてから、国内では「皇室を敬い、異国を排除する」という尊王攘夷運動が台頭。そんな中で幕府は「徳川家茂将軍が京都に行く際の護衛」を募りました。それは文久3年(1863年)2月の事でした。

近藤率いる試衛館の面々は護衛を受け持つ事を決意。2月8日に江戸を出発し、23日に京都に到着します。永倉もその中に名を連ねていました。最終的な志願者は234名と言われます。

しかし彼らを率いていた清河八郎は彼らを「将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒に利用する」つもりでいました。これに同意した者達は清川と江戸に戻るものの、試衛館の面々や芹沢鴨の率いる面々はこれを拒否し京に残る事を決めます。

残留した彼らは新撰組の前身である「壬生浪士組」を結成しました。初期メンバーは24名で、当時京都守護職の立場にあった会津藩主・松平容保の預かりとなります。永倉達はその後、8月18日に起きた「八月十八日の政変」での活躍が認められ、新撰組と名を変えました。

なお、9月18日には初代局長の芹沢鴨が内部抗争の末に暗殺され、9月26日には長州藩のスパイが粛清されています。永倉は芹沢の暗殺には関与していないとされますが、長州藩のスパイの粛清には関与したとされます。

永倉新八の生涯③


(池田屋跡 出典:Wikipedia)

元治元年(1864年)になると攘夷急先鋒の長州藩が「京都を火の海とし、孝明天皇を連れ去る」という計画を考えている事が判明します。6月5日に新撰組は彼らの潜伏する池田屋を襲撃し、事件を未然に防ぎます。

池田屋に切り込みをしたのは、近藤勇、永倉新八、沖田総司、藤堂平助の4名。沖田や藤堂が戦闘から離脱する中、近藤と永倉は他の新撰組隊員が合流するまで、懸命に戦い抜きました。彼らのおかげで長州藩の計画は未然に防がれたと言えます。

その後も永倉は「禁門の変」や、長州藩士の捕縛などで活躍しました。永倉は新撰組の中で「二番隊隊長」となったのです。後に永倉は傲慢な振る舞いが目立ち始めた局長・近藤勇に不満を感じ、松平容保に「非行五ヶ条」を提出。新撰組の中でも古参の隊員として、大きな発言力を持っていました。

慶応3年(1867年)3月には意見の相違が続いていた伊東甲子太郎が新撰組から別離。彼らが近藤勇の暗殺を計画している事が分かると、伊東甲子太郎一派は11月18日に暗殺されました(油小路事件)。襲撃に加わったのは永倉率いる17名でした。

その後、新撰組は伊東の亡骸を放置。伊東一派が亡骸を引き取りに来るところを狙い撃ちにします。伊東一派の中には永倉が親しかった藤堂平助もおり、永倉は近藤の意向を汲んで東堂を逃がそうとしています。しかし東堂は永倉や近藤の意向を汲めなかった他の隊員によって暗殺されました。

永倉新八の生涯④


(鳥羽・伏見の戦い 出典:Wikipedia)

慶応4年(1868年)1月3日には鳥羽伏見の戦いが勃発。新撰組は旧幕府軍につき、新政府軍と対峙します。永倉は最新鋭の新政府軍に対して刀一つで突撃する豪胆さを見せています。

鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、新撰組の生き残りは3月6日に甲府鎮撫隊として新政府軍と戦いますが、こちらも敗北。一部の隊員は松平容保の治める会津へ転戦していきました。

永倉は体制を立て直す為、江戸に戻ります。その際に永倉は近藤と意見の対立から原田左之助と新撰組を離脱。その後は靖兵隊を結成し、各地で転戦を続けます。その後の永倉は会津藩の降伏を知り、江戸に帰還。永倉の戦いは終わりを迎えたのでした。

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永倉新八の生涯⑤


(小樽中心街 出典:Wikipedia)

明治維新を経て永倉は明治4年(1871年)に松前藩の家老・下国東七郎の取り成しで、藩医の娘・きねと結婚。後に1男1女をもうけます。2年後に永倉は家督を相続して杉村治備と名を変えました。

永倉は北海道小樽に渡り、明治15年(1882年)には樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務めた他、退職後は東京牛込にて剣術道場を開いています。明治27年(1894年)に日清戦争が勃発した時、永倉は抜刀隊に志願するものの、政府からは「お気持ちだけ」と断られています。

明治32年(1899年)には妻や子供が北海道で薬局を開いていた事もあり、北海道に再移住。晩年の永倉は孫と映画館に行くなど、普通のおじいちゃんとしての一面もありました。

「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と語っています。

永倉新八の死因と最期


(壬生屯所跡 八木邸 出典:Wikipedia)

永倉は大正4年(1915年)1月5日に虫歯に伴う骨膜炎と敗血症により77歳で死去。当時としてはかなりの長寿です。ちなみに同年に同じく新撰組の生き残りである斎藤一も亡くなっています。

永倉は最晩年も剣術に身を投じ続けました。東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)から剣術の指導要請を受けると、家族の反対を押し切って指導に出かけます。しかし途中で身体を痛め、馬車に乗せられて帰宅。身体は衰えても永倉の剣術への想いは少しも衰える事はなかったのです。

永倉新八の性格


(弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 出典:Wikipedia)

がむしゃらな江戸っ子気質

永倉の新撰組時代のあだ名は「がむしん」です。これは「がむしゃらな性格」と名前の「新八」を掛け合わせたものでした。

永倉は剣術を極めたいと思えば、後先を考えずに脱藩。剣術修行の為に関東一帯を遠征するなど、一つ定めた目標にはひたむきになれる信念を持っていたのです。この信念こそが、永倉を「新撰組の最強の1人」に押し上げた理由だと思われます。

また永倉は松前藩士のルーツを汲む人物ですが、生まれた場所は江戸。生粋の江戸っ子でした。作家・池波正太郎は永倉を気に入っていましたが、それは「永倉が生粋の江戸っ子」だったからです。永倉は多くの隊士に好かれていましたが、それは生まれ持った性格の影響も大きかったのでした。

永倉新八の功績

池田屋事件の対応


(池田屋事件の傷跡の残る三条大橋の擬宝珠刀傷跡 出典:Wikipedia)

永倉は池田屋事件では「襲撃の先鋒」として近藤勇沖田総司藤堂平助と共に討ち入りしています。この時に沖田は昏倒し、藤堂は負傷。一時的に近藤勇と永倉のみが戦う場面もありました。

戦闘が終わった時、永倉は左手親指に深い傷を負い、防具がボロボロ。更に刀も折れていました。永倉のおかげで結果的に京都を火の海にする計画は未然に防がれ、新撰組の名前は京都中に轟いたのです。

戊辰戦争


(甲州勝沼の戦い 出典:Wikipedia)

戊辰戦争で新撰組は旧幕府軍として戦った事は先ほど述べました。鳥羽・伏見の戦い以降、土方歳三や近藤勇が負傷して戦線から離脱する場面も多々ありました。その中で永倉は隊長代務として新撰組の指揮にあたっています。これは土方達からの信頼が非常に厚かった事を意味していますね。

永倉が身を投じたのは鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いだけではありません。新撰組を離脱した後も靖兵隊を結成し、北関東の岩井宿・室宿付近で新政府軍を突破。更に宇都宮の戦いに参戦して勝利を収めるなど、新政府軍を手こずらせました。

戊辰戦争では多くの犠牲者が出ており、近藤勇や土方歳三など、新撰組の隊員の多くも亡くなっています。永倉は前線で戦い抜きながらも生き残りました。その点も永倉の大きな功績と言えるでしょう。

新撰組の名誉回復に務める

明治維新後、敗者となった新撰組は「逆賊」の汚名を着せられ、評価はとても低いものでした。明治期の永倉は新撰組の名誉回復の為に、奔走しています。

近藤勇が斬首された場所・板橋滝野川には幕府の医者・松本良順と新選組隊士供養塔を建立。黙して多くを語らなかった斎藤一と異なり、永倉は新聞記者に幕末の壮絶な体験を語っています。

更に永倉は『浪士文久報国記事』『七ケ所手負場所顕ス』『新選組顛末記』などの証言を残しています。これらの書物は新撰組の評価を一変させる事になりました。様々な媒体で新撰組が取り上げられるようになり、新撰組が人気を博したのは永倉の功績が大きいのです。

永倉新八のエピソード・逸話

新撰組最強は永倉新八?


(新撰組最強候補の1人 斎藤一 出典:Wikipedia)

新撰組の隊士は選りすぐりの精鋭達ですが、特に隊長の強さは文句なしだったと言われます。新撰組の生き残りである阿部十郎は「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と語っており、永倉の剣術の強さを強調しています。

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この証言をもとに永倉が新撰組最強であると主張する人も多いのです。ちなみに永倉は「下段の構え→上へ敵の剣を擦り上げる→下へ切り落とす」という技を得意としていました。この技を永倉は「龍飛剣」と称しています。

愛刀は播州手柄山氏繁


(12世紀の日本刀 出典:Wikipedia)

永倉の愛刀は播州手柄山氏繁というもので、刃長は約70cm。1801年ごろに手柄山氏繁の手によって作られたものです。池田屋襲撃の際も愛用していましたが、この時の戦いで切っ先の波紋部分が折れてしまいました。

現在は刀の行方は分かっていませんが、手柄山氏繁の出身地である愛媛県伊予市には手柄山氏繁の手によって作られた刀が指定文化財となっています。

晩年も衰えなかった眼光

明治という太平の世を迎えても永倉の生き様は変わる事はありません。晩年に孫と映画館に行くようになった永倉ですが、映画館の出口で地元のヤクザに絡まれた事がありました。永倉は鋭い眼力と一喝でヤクザを退散させています。

幕末を生き抜いた永倉にとって地元のヤクザなど、小物に過ぎなかったという事ですね。このエピソードは孫の杉村道男も語っており、信憑性が高いです。永倉の生き様は次の世代にも引き継がれていきました。

永倉新八の名言


(永倉の盟友 土方歳三 出典:Wikipedia)

・お国のために働いた体だ。わしの誇りだ
新撰組は敗者になったものの、国のために死を覚悟して戦った事は間違いありません。永倉は酔うとふんどし一枚になり、歴戦の傷を見せていたそうです。

ちなみに永倉の身体には7箇所に大きな傷があり、永倉はそれを「七ケ所手負場所顕ス」と書き残しています。永倉にとって傷は勲章のようなものだったのです。

・武士の節を尽くして 厭(あく)までも貫く竹の心一筋
永倉が浪士隊に加わり、江戸から京都に赴く時に詠んだ歌です。また戦いの時に着ていた陣羽織にもこの歌が縫い付けられていました。永倉の生き様が伝わってきますね。

永倉新八の家族や子孫

永倉新八の家族

永倉は明治4年(1871年)に藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚。長倉姓から杉村姓となりました。2人の間には義太郎とゆきという2人の子供が生まれています。

義太郎は記者となり、永倉の証言をもとに「新選組顛末記」を執筆。晩年には新撰組の生き残りである島田魁の葬儀に永倉と共に訪れるなどしています。

ちなみに杉村家の家督を継いだのは、ゆきの婿養子である傳次。晩年の永倉はゆき夫婦と暮らしていました。永倉の最期をみとったのもゆきの家族です。永倉の子孫は義太郎とゆきの家系から派生し、現在も続いているのです。

永倉新八の子孫


(重郎氏が代表取締役を務める株式会社ぎゃろっぷ 出典:Wikipedia)

・杉村悦郎
悦郎氏は義太郎の孫で、永倉新八のひ孫にあたります。タウン誌の編集長やコピーライターを務めた他、永倉新八の伝記を著者として残しています。新撰組関連の研究も行い、2005年には「板橋の慰霊碑と永倉新八」という研究内容で新撰組研究論文大会優秀賞を受賞しました。

・杉村重郎
悦郎氏の弟にあたります。アニメーション制作プロデューサーとして数々のアニメを手がけた他、2019年からぎゃろっぷの代表取締役社長もつとめています。

・杉村和紀
悦郎氏や重郎氏のはとこにあたり、TVディレクターを務めている他、悦郎氏と「新選組永倉新八のひ孫がつくった本」という書籍を執筆しています。

こうしてみると永倉の子孫は剣術とは異なる分野で働いている人が多いですね。

もう一人の永倉新八の子孫


(現在の芸妓 出典:Wikipedia)

ちなみに永倉は新撰組時代に島原亀屋の芸妓・小常を妻としていました。しかし小常は娘・磯子を産んだ後に死去します。永倉は戊辰戦争の始まりと共に退京する事になり、磯子は小常の姉に預けられました。

磯子は後に関西の女役者・尾上小亀となり、永倉は1900年に再会しています。磯子がその後、どのように生きたのか、子孫がいるのかも不明です。ひょっとしたら磯子の血筋も現在まで続いているのかもしれませんね。

永倉新八の家紋

永倉の家紋は「石持に松皮菱」です。元々永倉新八の苗字は長倉という事は前述しましたが、父の墓石にも松皮菱が使用されています。

松皮菱の家紋は大きい菱の上下に、小型の菱を重ねるように取り付けたものです。「松皮という名前」の由来は家紋の形状が表皮をはがしたときの形に似ているからとされます。

永倉新八のゆかりの地

永倉新八の墓

実は永倉の墓は全国に4箇所あります。

1つ目が永倉が晩年を過ごした小樽にある小樽中央墓地(北海道小樽市緑5-61)。

2つ目が里塚霊園(札幌市清田区里塚468番地外)。

(里塚霊園 出典:Wikipedia)

3つ目が寿徳寺(東京都北区滝野川4-22-2)。

(寿徳寺 出典:Wikipedia)

こちらは近藤勇の菩提寺であり、発起人は永倉です。近藤だけでなく他の隊士の墓もあります。ちなみに永倉が埋葬されたのは1929年の事でした。

4つ目が松寿院(岡山県岡山市南区飽浦135)。
なぜ北海道でも東京でもない岡山に永倉のお墓があるのかといえば、永倉の生家の子孫が岡山に移り住んだからです。ちなみに建立されたのは1995年とかなり最近です。墓の脇に新八の顕彰碑もあります。

永倉新八資料館

永倉は明治に入ると杉村家の養子となった事は先ほど述べました。その杉村家の菩提寺が「浄土真宗東本願寺派 量徳寺」であり、その寺の中に永倉新八記念館があります。

畳3畳ほどの非常に小さな空間ですが、永倉にまつわる資料が数多く展示されています。永倉に興味を持つ人は是非とも訪れて欲しい場所ですね。

住所:北海道小樽市入船1丁目7-1

池田屋事件跡地


(池田屋事件跡地 出典:Wikipedia)

新撰組が死闘を繰り広げた池田屋は後に廃業。様々な店が転々と続く中、2021年6月時点では「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋になっています。

ちなみにこの場所には「池田屋騒動之址」という石碑が建立されています。新撰組が凄惨な戦いを繰り広げた事に想いを馳せるのも良いかもしれません。

住所:京都市中京区三条通河原町東入中島町82

永倉新八の関連人物

芹沢鴨

芹沢は新撰組の前身となった壬生浪士組の初代局長です。芹沢は粗暴な性格もあり、近藤勇と不仲となり後に暗殺されています。試衛館のメンバーとは総じて仲が悪かったものの、永倉だけは仲が良かったとされます。

一説では芹沢は永倉と同じく「神道無念流の免許皆伝者」であり、波長が合ったのかもしれません。この芹沢暗殺事件において永倉は何も知らされていなかったようで、芹沢の暗殺を「国家的な損失」と嘆いたとされます。

後に永倉と近藤は袂を分かってしまいますが、その発端は「芹沢の暗殺」だったのかもしれません。

近藤勇


(近藤勇 出典:Wikipedia)

近藤勇は芹沢の後を継いで新撰組の局長になりました。永倉と近藤は試衛館からの長い付き合いであり「同志」のようなものでした。ただ新撰組が大きくなるにつれ、近藤は勝手な振る舞いをする事が増え、永倉との意見の相違も目立つようになります。

永倉は元治元年(1864年)に非行五ヶ条という、近藤の振る舞いの非を訴えた嘆願書を松平容保に提出しています。とはいえ、その後も永倉と近藤は新撰組の重鎮として歴戦を戦い抜いていきました。

両者の対立が決定的になるのは戊辰戦争の最中。永倉が近藤に「会津に転戦して戦う事」を提案した時に、近藤が「我が家臣として働くのであれば、同意もいたそう」と述べた時でした。永倉にとって近藤は同志のようなもの。自分の事を家臣にしようとする態度に我慢がならなかったのです。

最終的に永倉は近藤と別離の道を進み、近藤は戦死し、永倉は生き長らえる事になるのです。最終的に袂を分かった永倉ですが、後に近藤の菩提寺である寿徳寺の建立の提案をするなど、弔いの心を絶やす事はありませんでした。

永倉は全国に4箇所のお墓がありますが、そのうちの1つは近藤と同じ寿徳寺にあるのです。

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永倉新八が仲の良かった隊士は?

永倉は多くの隊士に好かれており、その中でも仲が良かったとされるのが、原田左之助島田魁だと言われています。原田は新撰組の十番隊隊長を務め、戊辰戦争では永倉と靖兵隊を結成しています。後に戦死したとされますが、馬賊として大陸に渡ったという説もあるのです。

また島田魁は永倉率いる二番隊の伍長を務めていました。永倉と島田の出会いは試衛館よりもっと前であり、永倉にとっては最古参の同志です。島田は土方らと箱館戦争まで転戦した後に降伏。明治時代も永倉との交流は続いていたようです。

永倉新八の関連作品

新撰組に焦点を当てた作品は多々あります。今回は永倉新八に焦点を当てた作品を取り上げていきましょう。

おすすめ書籍・本・漫画

・新撰組顛末記
永倉が語った新撰組時代の出来事をまとめたものです。新撰組を表舞台に押し上げた本であり、池田屋事件や油小路事件などの生々しい顛末が語られています。記憶が曖昧になっている部分も多く、全てが事実とは言えない部分もあるようですが、新撰組の足跡を知る上では不可欠な本と言えるでしょうね。
https://www.amazon.co.jp/新撰組顛末記-新人物文庫-な-1-1-永倉新八/dp/4046029188/ref=mp_s_a_1_1?dchild=1&keywords=永倉新八&qid=1622994528&sr=8-1

・新選組永倉新八のひ孫がつくった本
永倉の子孫である杉村悦郎氏らが執筆した一冊。永倉を慕う者達が集い、永倉の魅力について熱く語られています。晩年の永倉の様子にも触れられており、明治を生きた永倉の知られざる一面にも触れる事ができる一冊です。
https://www.amazon.co.jp/新選組永倉新八のひ孫がつくった本-柏艪舎ネプチューンノンフィクションシリーズ-杉村悦郎/dp/4434068148/ref=pd_aw_sbs_2/356-6269134-2054616?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4434068148&pd_rd_r=86ae4fd9-3844-4101-94a0-7a2f14f08071&pd_rd_w=uQriO&pd_rd_wg=m2zxB&pf_rd_p=095e46c0-73f3-47fd-9820-6eb1421b6b9a&pf_rd_r=Z30Z5C5BA3YG9ZEXHNPK&psc=1&refRID=Z30Z5C5BA3YG9ZEXHNPK

・るろうに剣心―明治剣客浪漫譚・北海道編
大円団を迎えたるろうに剣心の続編です。筆者がずっと描きたいと思っていた北海道編であり、時代的に北海道に住んでいた永倉も登場します。本作ではおなじみの斎藤一も登場しており、2人の絡みもまた見どころの一つです。
https://www.amazon.co.jp/るろうに剣心―明治剣客浪漫譚・北海道編―-1-ジャンプコミックスDIGITAL-和月伸宏-ebook/dp/B07FQL3V1P/ref=mp_s_a_1_5?dchild=1&keywords=るろうに剣心+北海道編&qid=1622995047&sr=8-5

・ゴールデンカムイ
明治期の樺太を舞台にしたサバイバルバトル漫画です。永倉をはじめ、箱館戦争で戦死したとされる土方歳三が登場。時期的には日露戦争終結後であり、永倉も土方も既に老境に達しています。またアイヌ文化を非常に丁寧に書いた作品でもあり、興味のある人には是非読んで欲しい漫画です。
https://www.amazon.co.jp/ゴールデンカムイ-1-ヤングジャンプコミックスDIGITAL-野田サトル-ebook/dp/B00T3XVB9E/ref=mp_s_a_1_7?dchild=1&keywords=ゴールデンカムイ&qid=1622996028&sr=8-7

おすすめの動画

おすすめの映画

2021年10月に放映予定の映画です。司馬遼太郎の代表作の1つであり、過去にも映画化やドラマ化がされています。2021年度版で永倉を演じるのは谷田歩です。

https://www.amazon.co.jp/あの頃映画-「燃えよ剣」-DVD-栗塚旭/dp/B005PS9YR2/ref=mp_s_a_1_1?dchild=1&keywords=燃えよ剣+DVD&qid=1623018460&sr=8-1
こちらは映画版ですが永倉はほぼ登場はありません。映画が放映されたのは1966年の事であり、その頃よりも永倉に対する注目度は高まっており、2021年度版では今まで以上の活躍が期待できますね。

おすすめドラマ

新撰組!
2004年に放送された大河ドラマです。永倉を演じたのは山口 智充でした。がむしんの名に相応しいひたむきさを持ちますが、更に正義感を持ったキャラクターとなっています。最終的に近藤と袂を分かったものの、近藤に対する尊敬と同志であるという思いは最後まで持ち続けていたのが印象的でしたね。

永倉新八についてのまとめ

今回は永倉新八の生涯や人物像について解説しました。永倉はがむしゃらに幕末を生きた男であり、その剣術の腕前は間違いなく新撰組最強の一角でした。池田屋事件や戊辰戦争で生き残った事からも、その腕前がよく分かります。

永倉の功績は幕末の動乱期だけでなく、新撰組という存在を後世に語り継いだ事でしょう。永倉が伝え残した新撰組の志は、今も多くの人達の心を打ち、多くの媒体で新撰組は人気を博しています。今回の記事を通じて永倉新八について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

おすすめの記事