斎藤道三の生涯と人物像!名言・妻・息子・子孫は?

【斎藤道三像、出典:ウィキペディア

戦国時代、その成り上がり人生が関東の北条早雲(ほうじょうそううん)とならんで、下克上大名の典型例として紹介されることの多い斎藤道三(さいとうどうさん)こと斎藤利政(さいとうとしまさ)。山岡荘八作「織田信長」のなかでは「美濃の蝮(まむし)、蝮の道三」と呼ばれ、ありとあらゆる策謀を用いて美濃の国主の座までのぼりつめたものの、最後は実子に攻め殺されると言う天国と地獄の両方の人生を味わった斎藤道三の人生を今回は辿ってみたいと思います。

斎藤道三の人物像

油売りから身を起こし、武士となりある時は上司に取り入り、ある時は主人を追放、謀殺し出世を続けたと言われる斎藤道三の人となりを検証してみました。

斎藤道三の出生から幼少期

斎藤道三の出生は1494年(明応3年)に山城国乙訓郡西岡(現在の京都市西京区・向日市・長岡京市辺り)が定説でしたが、近年は1504年(永正元年)生まれ、出生場所も諸説出てきて確定はされていません。父は松波基宗(まつなみもとのぶ)で、松波氏はもともと上皇に仕える北面武士の家柄だったそうですが、道三が産まれたときに基宗は諸事情で浪人中の身だったそうです。道三の幼名は峰丸(みねまる)といい、11歳で得度して僧侶となりますが、後に還俗して松波庄五郎(まつなみしょうごろう)と名乗りました。これが一般的な斎藤道三の生い立ちですが、実は最近の研究でこれは道三の父のことで、今までの道三一代で成り上がったとされるサクセスストーリーは父・庄五郎と道三の二人で成し遂げたとするのが定説となっています。

斎藤道三の性格、考え方

【稲葉良通(稲葉一鉄)像・長谷川等伯筆、出展ウィキペディア

事実と虚構が入り交じっている道三の人生ですから、道三の性格を判断するのは難しくなっています。しかし美濃乗っ取りを画策しているときの道三は梟雄(きょうゆう)と呼ばれるに相応しい知恵と行動力を発揮していたようです。小守護代の家臣になり、文武に優れたその才覚で頭角を表すと、守護職の次男の信頼を得て、自身の主人である小守護代を忙殺してその跡を継ぎ、守護代が病死するとすぐにその家へ養子に入って守護代となります。そしてその次には道三を引き上げてくれた守護職の次男をあっさりと毒殺してしまうという、正しく手段を選ばすに成り上がります。このため嫡男・斎藤義龍(さいとうよしたつ)が道三排除の挙兵をしたときには、ほとんどの家臣が道三側には付くことなく、義龍17,500人に対して道三2,500人という兵力差となり、因果応報の言葉通りの結末を迎えました。政治面では道三の悪の面だけが目立ちますが、茶道においては織田信長(おだのぶなが)の初代茶頭をつとめた不住庵梅雪(ぶじゅうあんばいせつ)にその実力を認められて茶の湯の法である「数奇厳之図」を伝授され、道三は家臣であった西美濃三人衆の筆頭・稲葉良通(いなばよしみち)にこれを相伝し茶道の確立に寄与しています。道三は嫡男の義龍には自身の不徳もあって人生の最期の場面で裏切られますが、次男・斎藤孫四郎(さいとうまごしろう)、三男・斎藤喜平次(さいとうきへいじ)を含め後継者争いが起こるまでは四人で仲良く稲葉山城で暮らしていたと伝えられており、子に対する親の情は人並み以上に厚かったようです。

斎藤道三の最期

【鷺山城跡、出展ウィキペディア

1554年(天文23年)斎藤利政は嫡男・義龍に家督と稲葉山城を譲り、剃髪して道三と名乗り鷺山城へと移り住みました。これには家臣らが道三に対して強引に家督の譲渡を迫ったとの説もあり、人心はすでに道三から離れていたことを示しています。道三は義龍を廃嫡し、溺愛していた孫四郎と喜平次のどちらかに斎藤家を継がせようと画策をはじめますが、義龍はいち早く道三の意図を見抜き孫四郎と喜平次の弟二人を殺害、1555年(弘治元年)道三討伐の兵を挙げました。先手を打たれた道三は長良川を越えて大桑城へ籠城し、両陣営は長良川を挟んでにらみ合い、冬を越え雪解けを待って動き始めました。義龍は旧土岐氏の勢力の支持を受けて2万に迫る兵を集めたのに対して、道三の方は側近だけで約3千の兵力しか集まらず、戦う前から勝敗は決していました。それでも緒戦は道三勢が義龍勢を押し返す奮闘を見せましたが、多勢に無勢で一気に攻めかかられると総崩れとなり、道三は長井道勝(ながいみちかつ)小牧源太(こまきげんた)によって討ち取られました。斎藤道三、享年63歳最期まで波乱の人生でした。

斎藤道三の生涯

近年の資料の発見と歴史研究の成果によって、斎藤氏による美濃国の国盗り物語は、道三とその父・松波基宗の二代にわたる可能性が高いとされるようになりました。そのため道三の伝記や小説に出てくる前半生の話は、松波基宗と混同されているようです。

~松波基宗と斎藤道三が混同されていると考えられている前半生~

1494年(明応3年)
山城国乙訓郡西岡に生まれる(1504年説あり)。

年代不詳
美濃小守護代・長井長弘(ながいながひろ)の家臣となり、名を西村勘九郎正利(にしむらかんくろうまさとし)とあらためる。

年代不詳
美濃守護職・土岐政房(ときまさふさ)の次男・土岐頼芸(ときよりあき)の信頼を得て西村勘九郎から長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)とあらためて、土岐氏の家督争いで頭角をあらわす。

1517年(永正14年)
守護職後継争いは遂に合戦へと発展し
土岐政房の嫡男・土岐頼武(ときよりたけ)と次男・土岐頼芸が衝突、頼武が勝利する。

1518年(永正15年)
頼芸が長井らの協力によって巻き返し、頼武を越前に追い払う。

1519年(永正16年)
土岐政房死去、越前・朝倉氏が美濃へ侵攻し頼芸を追い落とし、頼武を守護職につける。

1525年(大永5年)
長井新左衛門尉は長井長弘とともに挙兵、守護代・斎藤利茂(さいとうとししげ)を破り稲葉山城を占拠。

【岐阜城(稲葉山城)復興天守、出展ウィキペディア

1527年(大永7年)
土岐政頼(ときまさより、頼武の改名)が籠る川手城(革手城)を長井勢が急襲し、政頼を越前に追放し頼芸が守護となる。

1530年(享禄3年)
長井長弘は斎藤氏にかわって守護代となり美濃国の実権を握る。

1533年(天文2年)
長井長弘が越前の土岐政頼への内通を疑われ、長井新左衛門尉(もしくは長井規秀)によって討たれる。

小説では上記の部分も斎藤道三による事象として書かれていますが、最近の研究で長井新左衛門尉は道三の父親であると考えられており、斎藤道三は1533年頃に家督を継いだ長井規秀(ながいのりひで)であると言う説が有力になっています。

藤道三の生涯・後半生

1535(年天文4年)
土岐政頼の嫡男・土岐頼純(ときよりずみ)が朝倉氏、六角氏の助力を得て頼芸と激突。長井規秀は頼芸とともに応戦し、六角氏を寝返らせ、さらに美濃守護代・斎藤氏も味方につけ戦いを有利に進める。

天文7年(1538年)
美濃守護代・斎藤利良(さいとうとしよし)が病死すると、長井規秀は斎藤の名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗る。

1539年(天文8年)
土岐頼芸と土岐頼純との間で和解が成立、斎藤利政の居城となった稲葉山城の大改築が行われる。

1541年(天文10年)
土岐頼満(ときよりみつ、頼芸の弟)を斎藤利政が毒殺、土岐頼芸との対立抗争が始まる。

1542年(天文11年)
斎藤利政は大桑城に攻め込み、土岐頼芸、土岐頼次(よりつぎ)親子を尾張へ追放。

1543年(天文12年)
斎藤利政に攻め立てられた土岐頼純は、朝倉氏を頼って越前国へ逃亡、斎藤利政は実質的な美濃国主となる。

1544年(天文13年)
土岐頼純は朝倉孝景(あさくらたかかげ)、土岐頼芸は織田信秀(おだのぶひで)の援助を受け美濃に侵攻、朝倉軍は斎藤軍に勝利するも稲葉山城を攻めた織田軍が大敗したため、結局朝倉、織田両軍ともに撤退。

1546年(天文15年)
土岐頼純、頼芸と斎藤利政との間で和議が成立、また朝倉孝景との間にも和議が成立し頼芸は隠居、頼純の守護職就任が決定。

1547年(天文16年)
加納口の戦い(井ノ口の戦い)で織田信秀率いる尾張軍が斎藤利政の美濃勢に大敗し、織田と斎藤の和睦が成立。土岐頼純が急死。

1548年(天文17年)
斎藤利政の娘・帰蝶(きちょう、濃姫)が信秀の嫡子・織田信長に嫁ぐ。

【濃姫之像、出展ウィキペディア

1552年(天文21年)
斎藤道三は織田からの脅威がなくなったため美濃内での抵抗勢力をすべて滅ぼし、頼芸を再び尾張に追放し美濃国統一に成功。

1554年(天文23年)
斎藤利政は家督を嫡男・義龍に譲り、道三と名乗って鷺山城に隠居。

1555年(弘治元年)
斎藤道三の義龍廃嫡の動きに対抗して、義龍は弟二人を殺害し道三に対して挙兵する。

1556年(弘治2年)
長良川の戦いで道三と義龍が激突、信長からの援軍は間に合わず、道三討死。

斎藤道三に関する逸話

生い立ちも出世の過程も謎に満ちた斎藤道三の人生ですが、それだけに驚かされるような逸話も残されています。

斎藤道三の神業エピソード

斎藤道三は美濃で武士になる前、油問屋・奈良屋又兵衛の娘と結婚し山崎屋を開店しました。行商による油の販売を生業とするお店でしたが、瞬く間に近隣諸国で評判となり商人として成功をおさめることになります。その評判となった要因が、お客に油を売るときに漏斗(ろうと)を使わず、一文銭の穴を通して油入れに油を注ぎ込むという曲芸まがい技を見せたことです。

油が一滴でもこぼれたらお代は頂きませんという口上も話題となり、このパフォーマンスをみるために多くの見物客が集まり大評判となったそうです。美濃国諸旧記に記述のあるこの道三のパフォーマンスが事実であるかどうかはわかりませんが、もともと人の注目を集める魅力を持った人物であったのだと思われます。

斎藤道三と明智光秀のエピソード

土岐氏の流れを組む明智氏の血を継ぐ明智光秀と、他国からやって来て才覚一つで美濃国主の座までのぼった斎藤道三は対立関係になる間柄のはずですが、実はこの二人には姻戚関係がありました。1532年(天文元年)道三が長井規秀であった時代に嫁に迎えたのが美濃長山城主・明智光継(あけちみつつぐ)の娘・小見の方(おみのかた)でした。明智光継は光秀の祖父にあたるため小見の方は光秀の叔母になります。光秀から見れば道三は義理の叔父ということになり、道三が義龍に討ち取られなければ光秀は美濃でそれなりの地位を得られたのかも知れません。

斎藤道三と織田信長のエピソード

美濃統一を狙う斎藤道三にとって最も厄介な相手は、美濃の南に位置する尾張の最大の実力者・織田信秀でした。

何度も美濃に攻め込まれ、そのたびごとに死闘を繰り広げ、宿敵でもあった信秀とは土岐氏の跡取り問題のあとに起こった加納口の戦いで道三が勝利したあと和睦することとなりました。お互いが美濃、尾張それぞれを完全に統一するためにはお互いの力を借りた方が得策と考え、信秀の嫡男・信長と道三の娘・帰蝶の婚姻を条件に和議が整えられました。

当時は尾張の大うつけと呼ばれていた信長を甘く見ていた道三は、信秀の死後に簡単に尾張が手に入ると考えていたようで、信長を娘婿として美濃に招待して暗殺しようと考えました。正徳寺での会見を前に尾張からやって来た信長の供揃えを盗み見していた道三は、その軍列を見て唸り声をあげました。

信長は当時はほとんど手に入らなかった最新兵器の鉄砲を100丁以上(一説には500とも言われる)揃えた鉄砲足軽隊を引き連れ、三間半の当時では驚くほど長い朱槍隊500名を並べ堂々と行進してやって来ました。

しかし信長はと言えば頭は茶筅、着流しの帷子(かたびら)で腰の縄に大小の刀を差した、仕事もいかにも大うつけの格好で馬上にありました。この格好には道三も驚き呆れたのですが、正徳寺の会見に現れた信長は結い直した髷、褐色の長袴の正装で登場し並んで出迎えた道三の家来たちの度肝を抜きました。

この凛とした若武者たる信長の姿と行進する信長軍の装備を目の当たりに道三は、「我が子たちは婿殿の門前に馬を繋ぐようになるであろう」と呟いたと言われています。

一度見ただけで信長の資質を見抜いたかどうかはわかりませんが、歴史は道三が思った以上に冷酷で斎藤家は信長によって滅ぼされる運命を辿っていきました。

斎藤道三が使用した家紋や武具

斎藤道三が使用したとされる武具や旗印などの由来や詳細を説明します。

斎藤道三が使用した家紋

いにしえの時代から波は、何かの力を与えられた水が姿を変えて人の前に現れたと考えられており、その不思議な形と優雅さ、進退する動きが用兵に似ていると考えられていました。斎藤道三はこれが兵法の極意に通ずるとして自身が発案し、晩年に使っていた家紋が二頭波紋です。当然のごとく使用したのは斎藤道三ただ一人で、道三の討死によって家紋も役目を終えました。

斎藤道三が使用した武具

【常在寺本堂、出展ウィキペディア

斎藤道三が使用したと言われている甲冑・紅糸中白縅胴丸(べにとなかしろおどしどうまる)が、南宮大社(岐阜県不破郡)に保存されており、斎藤家の家臣でのちに羽柴秀吉の軍師として活躍した竹中重治(たけなかしげはる、半兵衛)が奉納したと言われています。南宮大社には他にも銘・康光、銘・三條、銘・兼元など重要文化財に指定されている名刀が奉納、保管されています。

斎藤家にゆかりのある太刀・有動刀

斎藤道三が使用していた刀については、どのような史料にもその記載がなく、全くわかっていません。

しかし斎藤家に良くない意味でゆかりのある刀はよく知られています。「有動刀(うどうとう)」と呼ばれるその刀は、のちに織田信長から朱印状を授かり、関鍛冶総領事に任じられた関兼常(せきかねつね)の数代前の作とされています。

1555年(弘治元年)に斎藤義龍が叔父・長井道利(ながいみちとし)と結託し弟の孫四郎と喜平次を呼び出し、家臣の日根野弘就(ひねのひろなり)に有動刀を持たせ二人を襲わせると僅か一刀のもとに斬り捨てることが出来たと言われる業物だったそうです。有動刀はその後竹中重治の手に渡ったとされていますが、現在ではその所在は確認されていません。

斎藤道三の名言

身を捨てて、この世の他に生きる世なし。いづくか終の住処なりけぬ

これは斎藤道三の辞世の句です。この世などは死んでしまえばすべて終わり、安住の地など結局はどこにもないのであるという意味に解釈されています。息子・義龍と対決した長良川の戦いを前に残した辞世の句と言われており、出家して僧侶になっていても現実主義者であった斎藤道三をよく表していると思われます。

虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかし当面、斉藤家は安泰

斎藤義龍が二人の弟を斬殺し、道三を排除するために道三よりもはるかに多い兵力を集めて挙兵したとき、鷺山城に隠居していた道三が、側近に向かって語ったと言われる言葉です。

道三は義龍を自分よりも相当に劣った人物と見ていたのですが、それが誤りであったことを認めての発言です。後半部分の将来の斎藤家の安泰を疑わなかったのは、美濃を譲ると約束した娘婿の織田信長が義龍よりもはるかに優秀だと信じていたからこそなのです。

斎藤道三ゆかりの場所

現代に斎藤道三の名残を伝える場所を紹介しておきます。

妙覚寺(みょうかくじ)

妙覚寺(みょうかくじ)

【妙覚寺本堂、出展ウィキペディア

 

京都府京都市上京区に建つ妙覚寺は日蓮宗の本山で、1378年(永和4年)に創建されました。

斎藤道三の父・松波基宗は妙覚寺で得度しており、道三の四男・日饒(にちじょう)が妙覚寺の19世住職となるなど非常に道三と繋がりがあるお寺です。

娘婿の織田信長も京都での宿泊場所は妙覚寺とすることが多く、本能寺の変の時も信長の嫡男・信忠が宿泊していました。この妙覚寺には道三が信長に美濃一国を譲るとした遺言書も保管されており、道三と妙覚寺の縁の深さを偲ばせます。

常在寺(じょうざいじ)

常在寺(じょうざいじ)

【常在寺本堂、出展ウィキペディア

 

岐阜県岐阜市にある斎藤道三や斎藤義龍、斎藤龍興(さいとうたつおき)三代の菩提寺であり、国の重要文化財である道三、義龍の肖像画が所蔵され、斎藤道三公供養碑も建てられている日蓮宗の寺院です。

1450年(宝徳2年)土岐家守護代・斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が京都妙覚寺から僧を呼び寄せて建立したのが始まりで、道三が美濃国主となってからは寺領が寄進された上に強力に保護され、大きく発展しました。その縁で斎藤家の菩提寺となり、現在では岐阜市で行われる道三まつりの時に、斎藤道三公追悼法要が毎年行われています。

斎藤道三の血を受け継いだ者たち

斎藤道三の息子や娘など、道三の血を受け継いだ者がどのような人生を歩んだのかを記しておきます。

斎藤義龍(さいとうよしたつ)

斎藤義龍(さいとうよしたつ)

【斎藤義龍画、出展ウィキペディア

 

斎藤道三の長男で母親は土岐頼芸の愛妾から道三の側室となった深芳野(みよしの)とされていますが、深芳野が道三の側室になったときにはすでに懐妊していて、義龍は頼芸の子だと言う説があります。

信憑性の低い説ですが、義龍は頼芸の実子であることを口実に道三討伐の旗をあげ、多くの家臣の支持を取り付けたとも言われています。義龍は道三から斎藤家の家督を譲られますが、全くといって良いほどその才覚を道三に認められておらず、廃嫡まで企てられます。

しかし義龍は弟二人を謀殺して挙兵、長良川の戦いで道三を討ち取って美濃国の全権を掌握します。しかし父殺しの罪から逃れることは出来なかったのか長良川の戦いから僅かに5年後の1561年(永禄4年)に奇病によって死去しています。ハンセン病とも言われていますが、原因は解き明かされていません。

斎藤龍興(さいとうたつおき)

斎藤龍興(さいとうたつおき)

【斎藤龍興・落合芳幾画、出展ウィキペディア

 

斎藤義龍の嫡男で道三の孫に当たる斎藤龍興は、義龍の病死によって弱冠14歳で家督を相続します。尾張の織田信長、北近江の浅井長政(あさいながまさ)らの美濃侵攻を何とか食い止めますが、有力家臣の離反や戦死が続いた上に、重用していた斎藤飛弾守(さいとうひだのかみ)が竹中重治と安藤守就(あんどうもりなり)に殺害されるなど、家臣団に多くの綻びが生まれてしまいます。

祖父・道三、父・義龍ほどの軍才も知謀もなかった龍興はこれを立て直すことが出来ず、1567年(永禄10年)有力家臣がことごとく織田信長に内応してしまい、龍興が20歳の時に稲葉山城は陥落、北伊勢へと落ち延びて長島一向一揆参戦しました。その後は三好氏や本願寺勢に与し反信長陣営で戦い続けますが、1573年(天正元年)8月、朝倉義景の客将として参戦していた一乗谷城の戦いで戦死したと伝えられています。享年26歳、嫡男がいたとも伝えられていますが詳細は不明です。

濃姫(のうひめ)

濃姫は斎藤道三とその正室・小見の方との間に産まれた唯一の子供であったとされていて、明智氏出身の小見の方が明智光秀の叔母であったことから、濃姫と明智光秀は従兄妹の関係であったとされています。

好敵手として争っていた斎藤道三と織田信秀は1547年(天文17年)頃から双方が和睦へと歩み寄り、1549年(天文18年)織田信秀の嫡男・信長と斎藤道三の娘・濃姫との婚姻が成立しました。のちの天下人とも目された織田信長の正室であったとされる濃姫ですが、彼女に関する記述は歴史的な文献には皆無で、誕生に関しても唯一、美濃国諸旧記に1535年(天文4年)の記述があるだけで、世間一般に知られている濃姫像は、山岡荘八ら歴史小説家が作り上げたものが認知されているだけなのです。このため、その生涯が謎に包まれたままの濃姫は今なお多くの歴史家の探求心をくすぐる存在となっています。

斎藤利治(さいとうとしはる)

斎藤利治は1541年(天文10年)に斎藤道三の末子として産まれ、長良川の戦いで父・道三が兄・義龍に討たれあとは、織田信長の庇護のもとで育てられ、元服後は信長の家臣として武功をたて、1567年(永禄10年)には26歳で加治田城主となりました。その後も六角氏攻め、姉川の戦い、石山合戦、朝倉討伐、長島一向一揆に従軍して武勲をあげ信長の信頼を得ます。

織田信忠が信長から家督を譲られ岐阜城主になると利治は信忠の重臣となり、越中攻め、有岡城の戦いに出陣しました。しかし、羽柴秀吉の援軍のため信忠とともに上洛したときに明智光秀による本能寺の変に遭遇、二条新御所にこもって明智軍と対峙し、これを三度も撃退しますが兵力差は埋め難く、信忠自刃後に屋敷に火を放ち最後の一戦を挑み義兄の斎藤利三(さいとうとしみつ)に討たれました。享年41歳。

斎藤利治の嫡男・斎藤義興(さいとうよしおき)は信忠の嫡男・織田秀信(おだひでのぶ)に仕えましたが秀信が関ヶ原の戦いで改易となると池田輝政(いけだてるまさ)に高禄で召し抱えられ、その子孫は岡山池田藩士として明治維新を迎えるまで斎藤の家を守り続けました。

斎藤道三を描いた作品

過去に斎藤道三を題材として扱った小説やドラマ、映画を紹介します。

小説の中の斎藤道三

斎藤道三を一躍有名にした小説といえば司馬遼太郎の「国盗り物語」です。1963年8月からサンデー毎日で連載が開始され、約3年間掲載されたのちに単行本化されました。

小説は斎藤道三、織田信長、明智光秀の3人の国盗り、天下取りを描いたものですが、前半の主人公となる斎藤道三は、国主となりいずれは天下を取る夢を持つ青年が己の才覚と身につけた武芸、芸道を活かして有力者に取り入り、ライバルを排除し、時には冷酷無惨に邪魔者を葬り去りながら出世を重ね、美濃の侍総てに恐れられる権力者にのしあがる「蝮(まむし)」として描かれています。

この小説の中で描かれた斎藤道三のイメージは現代でもそのまま持ち越されており、一冊の本の影響力の凄さを思い知らされる作品なので、斎藤道三を知るには必ず手にとって読むべき一冊です。

映像の中の斎藤道三

司馬遼太郎原作の国盗り物語は、斎藤道三を平幹二郎が演じた1973年のNHK大河ドラマで映像化され、高視聴率を記録しました。これ以降にも2005年の正月にテレビ東京系列で放映された北大路欣也主演の国盗り物語があり、斎藤道三は裏の顔と表の顔を上手に使い分ける実力派の時代劇スターが演じる役柄になっています。

国盗り物語の後半の主役となる織田信長はそれぞれ高橋英樹、伊藤英明と凛とした二枚目で背の高い俳優が抜擢されています。国盗り物語を原作としないもので斎藤道三を描いた作品は1991年の正月にテレビ朝日系列で放映された「戦国乱世の暴れん坊 齋藤道三 怒涛の天下取り」があります。

斎藤道三を松平健、織田信長を仲村トオルが演じており、こちらは斎藤道三の逸話をふんだんに散りばめた娯楽大作となっていますが、斎藤道三の生涯を追いかけるにはもっとも適した作品となっています。2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主役に据えた長谷川博己主演の「麒麟がくる」ですが、この中で斎藤道三を演じているのが本木雅弘です。

本木雅弘はいままでの道三のイメージを壊すことなく、より目的意識が強く見ているものには恐怖感を与えるほどの個性的な斎藤道三を演じ高い評価を受けています。この本木道三も一見の価値ありです。 

まとめ

戦国時代、下克上が当たり前であった世の中でも、油問屋の主人が一国の守護にまで成り上がった話は相当に珍しかったようです。

これを上回る出世をした人物はあとにも先にも農家の出身で天下人となった豊臣秀吉しかおらず、斎藤道三の出世に対する執念と努力は並大抵のものではなかったと考えられます。ただあまりにも急激に出世し、その手法も騙し討ちや暗殺、追放など遺恨を残す方法が多く、晩年の義龍との対立時にはこれが仇となり、家臣団のほとんどが義龍側に付くと言う結果を招きました。

織田信長が模倣したと言われる楽市楽座など商いの経験があった斎藤道三らしい政策も行い、美濃国を富ませ新たな領国の在り方を後世に伝えた功績はありましたが、波乱に満ちた人生は因果応報を地でいく生き様だったようです。

乱世といわれた戦国時代を生き抜き、美濃国を手に入れ、天下をも狙おうとした斎藤道三に男のいきざまを見て憧れている人も多いのようですが、策士策に溺れるの例え通り自分への戒めとして斎藤道三の人生を学ぶ必要もありそうです。

参考文献

司馬遼太郎「国盗り物語一~四」新潮文庫

桑田忠親「斎藤道三 」講談社文庫

「麒麟がくる」岐阜大河ドラマ館
https://www.taiga-kirin-gifu.jp/

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