平清盛の生涯と人物像まとめ!偉業・名言・死因も解説

平清盛に対して皆さんはどんなイメージを持ちますか?平家にあらずんば人にあらずと言う台詞に代表されるように、傲慢な性格で悪役のイメージが根強いかもしれません。実は近年の研究から、平清盛の評価は徐々に変わってきています。


今回は武士初の太政大臣になった平清盛の生涯、名言、偉業・死因について解説していきます。

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平清盛とは?

(『天子摂関御影』の清盛肖像 出典:Wikipedia)

平清盛は平安時代末期の武将、政治家です。武士でありながら朝廷の最高責任者である太政大臣に任命され、後に日本初の武家政権を樹立させました。天皇の外戚になり権勢を奮いますが、他の武士や公家等から反発を受けます。
源頼朝が挙兵し、源平の争いが激化する中で、熱病にて死去しました。

太政大臣とは?

大宝律令において司法や行政に携わる人を太政官と呼びました。太政大臣は太政官を束ねる律令政治におけるトップの役職です。元は摂政や関白に並ぶ権力を持ちましたが、藤原家が権力を持つ頃には権力のない名誉職となりました。公家以外で任命されたのは平清盛、足利義満、徳川家康豊臣秀吉と秀忠のわずか5人です。

太政大臣は名誉職なので、政治の場での意義は殆どありませんが、貴族が支配していた朝廷の中で、武士が政治のトップである太政大臣に任命された事は、後に始まる武家政権の足がかりとなりました。

平清盛の家系図

(伊勢平氏の家紋 揚羽蝶 出典:Wikipedia)

源氏平氏は臣籍降下(姓をもらい皇族でなくなった人)した皇族の子孫です。平清盛や平将門のルーツは桓武天皇の皇子まで遡り、同じ先祖に行き着きます。
平将門の鎮圧に功があった平貞盛の四男である平維衡は、伊勢に勢力を拡大し、後に伊勢平氏と呼ばれます。平維衡から数えて4代目であり、清盛の祖父でもある平正盛は、白河天皇に仕えて勢力を更に拡大させます。
その息子である平忠盛は伊勢平氏で始めて昇殿(天皇の私的区域に入れる)を許されます。更に日宋貿易で莫大な富を得ます。清盛は後に驚異的な出世を果たしますが、正盛や忠盛の武力や財力を受け継いでいた事も大きいのです。

平清盛の人物像に関連する動画

平清盛が関わった戦いや、行った政策について、分かりやすく紹介されています。

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平清盛の生い立ちと生涯

天皇の御落胤?

(平忠盛 出典:Wikipedia)

平清盛は1118年に平忠盛の長男として生まれます。出生に不明な点も多く、白河法皇の子を身ごもった女房が忠盛に与えられ、生まれたのが清盛という説があります。清盛は驚異的な出世をしており、当時から天皇の御落胤という噂はありました。

保元の乱と平治の乱

(『平治物語絵巻』三条殿焼討 出典:Wikipedia)

1153年に忠盛が死去し、清盛は平家の棟梁となります。1156年に天皇や藤原摂関家のお家騒動である保元の乱が勃発。清盛は後白河天皇につき勝利します。
叔父である平忠正は敗者側の崇徳上皇側についており、清盛は自らの手で斬首しています。源氏も親子で後白河天皇派と崇徳上皇派に分かれて戦っており、崇徳上皇側についた源氏を斬首する事で、源氏の力を削ぐ目的があったと言われます。後白河天皇についた源義朝は、自らの手で父親の為義を斬首しています。

平治の乱では朝廷に力を持っていた信西が自害。クーデターを起こした藤原信頼源義朝に勝利する事で、清盛は武士の第一人者となり、朝廷の軍事力を掌握します。義朝は敗死し、息子の頼朝は伊豆に流罪となりました。

太政大臣となる

(二条天皇 出典:Wikipedia)

清盛は譲位した後白河上皇と二条天皇の双方に仕えつつ、摂関家に娘を嫁がせる等、朝廷での足固めを続けます。1167年には武士として初めて太政大臣となりますが、実態は名誉職に過ぎず、3ヶ月で辞任します。
後に出家し、表向きは政界から引退しますが、嫡男の重盛に引導を渡しつつ、朝廷に大きな力を持ち続けました。

その後は福原(現在の神戸)に別荘を作り、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に努めます。清盛は宋と貿易を進め、海洋国家の樹立を考えており、都市整備が進めば福原幕府が出来ていた可能性がありました。

天皇の外祖父になる

(後白河法皇 出典:Wikipedia)

清盛の勢力拡大に対し、後白河法皇は危険を感じ、両者の中は徐々に悪化。1177年に鹿ケ谷の陰謀で平家打開の陰謀が露呈。その後も死去した重盛の土地を没取する等、法皇は対立を深めていきます。

1179年に清盛は治承三年の政変にて法皇を幽閉し、多くの政敵を処罰します。翌年には安徳天皇が即位。安徳天皇の母親は清盛の娘の徳子であり、清盛は天皇の外祖父となり、政治の実権を完全に掌握しました。

平家の陰り

(福原雪見御所の碑 出典:Wikipedia)

平家の繁栄は各地で反平家派を増やし、1180年6月には法皇の息子以仁王が挙兵。清盛は都を京都から福原に強硬に遷都します。火種は大きく、呼応して8月には源頼朝が挙兵します。清盛は重盛の子の維盛を総大将にして関東に派遣しますが、富士川の戦いで交戦せず撤退。福原の遷都も反対が多く、11月には平安京に戻る等、繁栄にも陰りが見えてきたのです。

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平清盛の死因と最期

(清盛が熱病で倒れた時の様子 出典:Wikipedia)

1181年2月に清盛は京都で東国の武士達の追討を命じますが、熱病にて倒れます。平家物語では体に水をかけると蒸発したとか、黒煙が部屋中に渦巻いたと書かれています。
死期を悟った清盛は法皇に宗盛(清盛の三男)と協力して政務を行うよう上奏しますが返答はなく、天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからずと言い残し、亡くなりました。
平家物語では死因はあつち死にぞし給けると書かれています。作中の遺言では頼朝の首を刎ねて、我が墓前に添えよ と言ったそうです。

死因は以前はマラリアと言われていましたが、2月という時期から考えにくいです。九条兼実の日記玉葉には頭痛を病むという記述があり、熱病は髄膜炎や脳出血からきていたと言うのが有力です。

平清盛の人生年表

(平清盛 菊池容斎画 出典:Wikipedia)

出来事
1118年(0歳)誕生
1129年(12歳)従五位(貴族とされる位階)に叙任
1138年(20歳)長男の重盛誕生
1145年(27歳)時子と結婚
1153年(36歳)忠盛の死去により平家の棟梁となる
1156年(39歳)保元の乱
1159年(42歳)平治の乱
1167年(50歳)太政大臣に就任
1168年(51歳)出家する
1169年(52歳)福原に別荘を建てる
1179年(62歳)後白河法皇を幽閉し院政を停止する
1180年(63歳)安徳天皇誕生 頼朝挙兵
1181年(64歳)熱病にて死去

平清盛の性格と人物像エピソード

性格

従来の清盛の性格は平家物語の通り、傲慢、暴君と言われてきましたが、実は優しかったという説が有力です。十訓抄にはそんなエピソードが載せられています。

・人がどんな無礼をしても笑って許した
・寒い日に幼い侍者を自分の衣の裾に寝かせ、自分だけが先に起きて、侍者を寝かせた
・どんな身分の低い者でも彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱った 等

心温まる話が多いです。

実際に平治の乱では首謀者の義朝の子を処刑せず、伊豆や高知に流罪にする程度で留めています。この優しさが裏目に出てしまいます。

殿下乗合事件

(松殿基房像 出典:Wikipedia)

平家物語では清盛が故意に悪く描かれており、それを象徴するのが殿下乗合事件です。

1170年 平資盛(重盛の子)は、摂政松殿基房の車と遭遇しましたが、下馬の礼をしませんでした。資盛の車と知らなかった基房の侍者は資盛に対し乱暴狼藉を働きます。
平家物語ではその後基房に報復をしたのは清盛で、重盛は清盛を諌め、資盛に蟄居を命じます。
しかし史実では報復をしたのは重盛で、清盛が重盛を諌めたそうです。清盛は基房に謝罪し、太政大臣に任命しています。

史実では清盛は優しく、魅力に溢れた人物だったのではないでしょうか?

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平清盛の偉業や政策

偉業

(北宋銭 出典:Wikipedia)

忠盛の時代までは武士は政治の場に参加する事は出来ず、朝廷に仕える存在でした。清盛は武力と財力を駆使して、武士でありながら政治の場に上り詰めました。これは数百年続く武士にとっての希望となりました。

政策

特筆すべきは日宋貿易の拡大です。現在の神戸市に大輪田泊という港を作りました。貿易は更に積極的に行われるようになり、宋銭等がもたらされ貨幣制度が日本に定着します。
構想のみで頓挫しますが、各地の支配地域の勢力を武士として系列化し、国守護人・地頭等の職を置くつもりでした。これは鎌倉幕府を作った頼朝も同様の政策をしています。
清盛は武力と貿易で得た財力を駆使しつつ、天皇や貴族と当初は良好な関係を築いています。清盛の政策は、摂関政治のように貴族的な面もありつつ、日本初の武家政権でもありました。清盛が長生きしていれば、鎌倉幕府とはまた違った武家政権が誕生していたかもしれません。

平清盛の妻や子孫

平家一門は一族の結束が強く、清盛の兄弟も含めると沢山の個性豊かな人物がいます。こちらでは清盛の妻達と、子供達について紹介します。

高階基章の娘(生没年不明)

清盛の正室です。当時の女性の名前は隠されている事が多く、名前が残っていない事は不思議ではありません。高階基章は貴族とは言え、勢いづいていた平家とはかなり身分の差がありました。婚姻に至る経緯は不明です。重盛、基盛を産んだ後、記録がなく病死したと言われています。

平時子(1126〜1185年)

(平時子 出典:Wikipedia)

清盛の後妻として1145年頃に正室になりました。異母妹の滋子が後白河天皇の妃となり、清盛の政治基盤のパイプ役となります。重盛、基盛が亡くなった後は、時子の子達が嫡流となります。
清盛亡き後は平家の精神的な支えとなります。壇ノ浦の戦いでは安徳天皇を抱いて身投げして自害します。

平重盛(1138〜1179年)

(神護寺三像伝平重盛像(足利尊氏説あり) 出典:Wikipedia)

母は高階基章の娘。清盛の嫡男です。平治の乱では勇敢に戦い、後には清盛と後白河天皇の調整役として活躍。人格者として知られ、同世代の貴族の日記でも好意的なものが多いです。

平家物語では傲慢な清盛、人格者の重盛という構図が出来ています。しかし殿下乗合事件のように、重盛の横暴も清盛の仕業になっている事もあり、全てを鵜呑みには出来ません。

時子の子ども達が台頭し、更に鹿ケ谷の陰謀で妻の兄の藤原成親が関与していた事が発覚すると、平家一門の中では孤立気味していきます。後に病にて42歳で死去します。

重盛の子の維盛は富士川の戦いで大敗北し、資盛は殿下乗合事件で傲慢な態度をとる等、ある意味で平家の没落を体現しています。資盛や宗実の子孫を自称した人物もおり、血筋は受け継がれていると思われます。

平基盛(1139〜1162年)

母は高階基章の娘。保元の乱、平治の乱で活躍します。24歳の若さで病死しますが、源平盛衰記では保元の乱で戦死した藤原頼長の怨霊の祟りと言われています。

平宗盛(1147〜1185年)

(平宗盛像 出典:Wikipedia)

母は時子であり、重盛亡き後の平家の棟梁となります。壇ノ浦の戦いでは死に切れず、生け捕りにされた後に斬首されます。戦局に対応出来ず、平家滅亡の原因を作った人物として評価は悪く、特に平家物語の書かれようは本当に酷いです。歴史は勝者が作るものなので、意図的に悪く書かれている可能性はあります。
妻が死に悲しみのあまり左大臣を辞任したり、子ども想いの優しい人物ではあったようですが、棟梁には向いていなかったようです。

平知盛(1152〜1185年)

(平知盛像 出典:Wikipedia)

母は平時子。聡明であり、清盛からの期待も高かったようです。宗盛が棟梁になった後は補佐をしています。平家物語では源平合戦の英雄として書かれ、壇ノ浦の戦いでは碇を体に巻きつけて、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せんと」言い自害します。
史実では病がちだったようで、戦いにおいて華々しい活躍はそれ程見られません。

平徳子(1155〜1214年?)

母は平時子。後白河法皇の子、高倉天皇の妃となり、安徳天皇を産みます。天皇の母として栄華を極めますが、後に平家は滅亡し安徳天皇も入水します。徳子は生き残り、一門の菩提を弔いました。

平盛子(1156〜1179年)

母は不詳です。摂関家は保元の乱後に勢力を縮小させており、清盛は盛子を摂関家嫡男の近衛基実の妃にします。基房22歳で盛子はわずか9歳です。
基実はわずか2年後に死去し、盛子は膨大な摂関家の記録・家宝・邸宅等を所有し、それらは清盛が管理します。1179年に24歳の若さで死去し、後白河法皇は、盛子が引き継いだ財力を全て没収します。これが治承三年の政変の原因となります。

平重衡(1157〜1185年)

(平重衡 出典:Wikipedia)

母は平時子。源平合戦の最中、奈良の仏教寺院を焼き討ちします。多数の死者が出た為、寺社勢力から恨みを買います。
墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利する等活躍しますが、一ノ谷の戦いで捕虜になります。平家滅亡後、寺社勢力に引き渡され斬首されます。

他にも多くの子どもがいたとされますが、時子以外は母が不明である等、情報が乏しい者も多いです。

平清盛の名言

(平清盛像 出典:Wikipedia)

葬儀などは無用。頼朝の首をはねてわが墓前に供えよ

平清盛の遺言として有名な言葉です。平家物語での台詞なので、史実通りかは分かりませんが、頼朝が新たな棟梁宗盛に和睦を申し出た際には、遺言を元にそれを断っています。

平清盛が頼朝に対して激しい憎悪を燃やしていた事は事実であり、平家が遺言に縛られてしまい、妥協や和睦が出来ず滅んでしまった理由とも言えます。

 

ちなみに驕り高ぶる平家を象徴する台詞として平氏にあらずんば人にあらず が挙げられます。清盛が言ったのではなく、時子(嫁)の弟の平時忠が言った言葉です。
平家物語では「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」です。意味も平家でなければ朝廷では出世出来ない 位の軽い意味だと言われています。

平清盛のゆかりの地

清盛のお墓の場所は諸説ありますが、吾妻鏡に記載されている播磨国山田(現在の神戸市垂水区)が有力です。この地の法華堂に遺骨を納めたらしいですが、肝心の法華堂の形跡は何処にもありません。平家が滅亡した際に壊されたのかもしれません。

全国には清盛のお墓が幾つかありますが、実際には供養塔であり、遺骨はありません。清盛の墓とされるものは、ゆかりの地も兼ねている事が多いです。

清盛塚

平家物語では円実法眼という僧侶が、遺骨を首にかけて摂津国へ下り、経の島に納めたと書かれています。神戸市兵庫区に8.8mの十三重の石塔があり、清盛塚と呼ばれます。
平家滅亡の際に取り壊されますが、1286年に鎌倉幕府九代執権の北条貞時が石塔を建てました。1923年の道路拡張工事の際の調査では遺骨の形跡はなく、供養塔だと分かります。その後清盛塚は10m程離れた現在の場所に移転しました。

能福寺

(能福寺にある平相國廟 出典:Wikipedia)

同じく神戸市兵庫区にあるお寺です。福原京遷都の際の平家一門の祈願寺でもあり、清盛が出家して剃髪したのもこの寺でした。この地にも清盛のお墓があります。この地にある供養塔十三重石塔は清盛の墓とも言われ、兵庫県の文化財にもなっています。その他日本三大大仏に数えられる兵庫大仏等、見所も多いです。

厳島神社

(本社本殿・拝殿(西面) 出典:Wikipedia)

広島湾に浮かぶ宮島にある神社です。その美しい景観で1996年に世界遺産となりました。神社そのものの歴史は古く、593年に創設されています。現在のような大規模な社殿を作られたのは1168年頃です。日宋貿易を祈願する為、清盛が神主の佐伯景弘に命じて作られました。平家滅亡後も信仰は途絶える事はありませんでした。

平清盛を題材にした作品

ドラマ・映画

(松山ケンイチ 出典:Wikipedia)

2012年の大河ドラマで平清盛が放送されています。清盛役は松山ケンイチさんです。時代がマイナーな事な事もあり、視聴率的には奮いませんでしたが、緻密に伏線が張られた脚本や、個性豊かな登場人物から根強いファンも多いです。

2016年にTBSのラジオ 荻上チキ・Session-22で大河ドラマの人気投票が行われ、1000票以上の票が集められました。3位の新撰組!(81票)、2位の独眼竜政宗(88票)に対して平清盛は209票の大差で1位になりました。

また2005年には義経が大河ドラマで放送され、渡哲也さんが清盛を演じています。このドラマでは清盛は傲慢ではなく、人格者として描かれています。

小説

高橋直樹さんが清盛を主人公にした「平清盛」を執筆しています。保元の乱、平治の乱を経て、政治家として台頭していく様子が描かれています。

また大河ドラマのノベライズとして藤本有紀さんの「平清盛」があり、ドラマの補足部分等も描かれており、こちらを読むと大河ドラマをより楽しむ事が出来ます。

参考文献

鳥越一郎 京都源平地図本―平清盛・平家年表付

伊藤潤 武士の王・平清盛

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