マッカーサーはGHQのトップとして戦後の日本の民主化を進めた人物です。その政策が功を奏し、日本は驚異的な復興を遂げ、先進国の仲間入りを果たします。
マッカーサーがGHQのトップであった事は知っていても生涯については分からない人も多いのではないでしょうか?
実は彼は日露戦争から第二次世界大戦に至るまで前線で活躍した生粋の軍人でした。今回はマッカーサーの生い立ちや人となり、偉業などについて紹介していきます。
目次
マッカーサーとは?
マッカーサーは1903年に陸軍に入隊。日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と多くの戦争に参加しています。優秀な軍人として驚異的な出世を果たし、国内外に多くの支持者がいました。
戦後はGHQのトップとなり、日本国憲法の草案の作成等、現在の日本の根幹に関わる政策を行いました。
生まれ
1880年アーカンソー州にて誕生。当時は開拓地末期であり、マッカーサー家はインディアンとの戦いの為、各砦を転々としています。
マッカーサー家
マッカーサー家はスコットランド貴族の血筋でしたが、領主争いに破れ没落しました。1828年にマッカーサー家はアメリカに渡ります。
マッカーサー家は代々長男がアーサーを名乗ります。
初代はアーサー・マッカーサー・シニア(1815〜1896)
2代目でアーサー・マッカーサー・ジュニア(1845〜1912)マッカーサーの父親です。
長男がアーサー・マッカーサー3世(1876〜1923)で、この記事で取り上げているダグラス・マッカーサーは三男です。
性格
マッカーサーが士官学校時代に通っていた頃、上級生のいじめが横行していました。マッカーサーはしごきに耐えましたが、痙攣を起こして失神した事もあります。他の生徒がしごきにより亡くなった際に、マッカーサーは証人に呼ばれますが、上級生の名前を最後まで明かしませんでした。
後に士官学校の校長に任命されてからは、しごきを完全に廃止。スポーツを積極的に取り入れ、現代的な軍人を要請する学校に変貌させます。
マッカーサーは我慢強く、合理的な性格であると分かります。その間に何が必要かを考え、実現に移すビジョンを持っており、これは後の日本の統治でも同様でした。
極めて優秀な頭脳と戦略を持ちつつも、忠誠心と言う感情は持ち合わせず、軍上層部や大統領からの評価は思わしくありません。反対に部下からの信頼は厚いです。良くも悪くもカリスマ性を持った人物でした。
身長
身長は183cm。当時のアメリカ人が171cmなのでかなりの長身です
死因
GHQを退いた後は大統領選を見据えて全国を行脚するものの、支持は得られませんでした。1952年にはレミントンランド社の会長に就任。1962年にはフィリピンの独立記念日の国賓に招かれる等、悠々自適の生活を送っていました。
1964年に84歳で死去します。死因は腎臓と肝臓の機能不全ですが、老衰といって良いでしょう。
3月6日に入院し、腸を切除する等大掛かりな手術をしたものの4月5日に亡くなりました。4月11日に大々的な国葬が行われ、日本から吉田茂が参列しました。
マッカーサーの人生年表
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1880年 | 0歳 | 誕生 |
1896年 | 16歳 | 西テキサス士官学校卒業 |
1903年 | 23歳 | 陸軍工兵隊に入隊しフィリピンで勤務 |
1905年 | 25歳 | 日本にて勤務 |
1917年 | 37歳 | 第一次世界大戦勃発。第42師団の参謀長・旅団長として参戦 |
1919年〜1922年 | 39歳 | 母校の士官学校の校長に就任 |
1922年 | 42歳 | マニラ軍管区司令官に就任 |
1925年 | 45歳 | 少将に就任 |
1930年 | 50歳 | 参謀総長に就任 |
1935年 | 55歳 | フィリピンの軍事顧問に就任 |
1937年 | 57歳 | 陸軍を退役 |
1941年 | 61歳 | 大平洋戦争の為、現役に復帰 |
1945年 | 65歳 | 日本の降伏文書の調印式に参加 |
1945年〜1951年 | 65歳〜71歳 | GHQのトップとして日本占領にあたる |
1950年 | 70歳 | 朝鮮戦争勃発 |
1951年 | 71歳 | 日本人12歳発言が物議を呼ぶ |
1964年 | 84歳 | 死去 |
マッカーサーがGHQのトップ(元帥)になるまで
続いてマッカーサーがGHQのトップになるまでの軍歴について紹介していきましょう。
華々しい出世
マッカーサーは士官学校と高等学校を首席で卒業し、1903年に陸軍でエリートとされる工兵隊に入隊します。
1911年に大尉に昇進し、第3工兵隊の副官と工兵訓練学校の教官に任命。翌年には陸軍省に栄転します。
当時の陸軍参謀総長のレオナルド・ウッドはマッカーサーの父アーサーに恩義を感じており、マッカーサーの仕事ぶりを高く評価していました。ウッドは勤務報告書に「知的で有能な士官」とマッカーサーの事を記載しており、後々の驚異的な出世に関わっていきます。
第一次世界大戦後は母校の士官学校の校長、陸軍少将、陸軍参謀総長と出世していきますが、どれもが最年少記録もしくは2番目という記録を樹立しました。
フィリピンの軍事顧問に就任する
1930年からの世界恐慌により、政府は軍縮を断行。マッカーサーはボーナスアーミー(退役軍人がボーナス支給を要求して起こした騒動)の鎮圧に失敗。公私ともに行き詰まりを感じていきます。
1935年にはフィリピン軍の軍事顧問に就任。アメリカは1946年にフィリピンを独立させる事を決定しており、軍整備が必要だったのです。結局は資金が足りず、整備は進みませんでした。
1937年12月に陸軍を退官する時期が近づきますが、退役後は陸軍にポストがなく、フィリピンの軍事顧問に留任しました。
第二次世界大戦
太平洋戦争の勃発により1941年7月にマッカーサーは中将として現役に復帰し、12月には大将となります。そしてアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となりました。
当初は日本がアメリカを圧倒。シンガポールやマレーシアは日本が掌握し、幕僚はマッカーサーにフィリピンからの撤退を命令します。
撤退後はオーストラリアとの連合軍である南西太平洋方面最高司令官に任命されます。その後もフィリピンの奪回にルーズベルト大統領に粘り強く交渉を行い、フィリピンの戦線に復帰。多大な成果をあげました。
終戦後
1945年8月に日本は降伏。トルーマン大統領は別の人に日本の統治を任せるつもりでしたが、長年のマッカーサーの功績は大きく、アメリカ国民や連邦議会にもマッカーサーの支持者が大勢いたので、統治を任せる事を決定します。
マッカーサーは8月30日に厚木海軍飛行場に到着。戦艦ミズーリで行われた調印式に参加後に連合国軍最高司令官として任命されます。陸軍に入隊し、実に42年の年月が経っていました。
マッカーサーが活躍した戦争
マッカーサーは1903年以降、多くの戦争に参加しています。マッカーサーが関与した大きな戦争について紹介します。
第一次世界大戦
第42師団の参謀長・旅団長に就任。様々な州から集められた軍隊 であり、レインボー師団と呼びました。
指揮官でありながら前線の偵察を直接行ない、ドイツ軍から銃撃や毒ガス攻撃を受け、危険な目に遭っています。その貢献度は高く、戦後には13の勲章を手にしています。
第二次世界大戦
マッカーサーは退官していましたが、フィリピンでの顧問の経験を買われ現役復帰しています。最初のフィリピンでの戦いでは日本軍に苦戦を強いられますが、その後のニューギニアの戦いでは日本軍の補給路を断つ戦法を取り、勝利を収めています。
1944年に入るとアメリカは日本を徐々に追い詰めていきます。その時点ではマリアナ諸島やパラオ諸島を押さえるという論法が主流で、フィリピンは優先順位は低かったのです。
マッカーサーは大統領にフィリピンを奪還する優位性を唱え、アメリカの世論もそれに傾いていきます。とうとう大統領も根負けし、フィリピンを奪還する事を承認。マッカーサーはレイテ島とルソン島を奪還します。
フィリピンではバターン死の行進で7千から1万のアメリカ軍の捕虜が死亡し、レイテ島の戦いでは民間人を含めマニラ市民10万人が戦死する等、多くの犠牲をもたらしたました。
朝鮮戦争
1950年には朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーは米韓側の指揮を担当。仁川上陸作戦ではソウルを占領する等活躍します。マッカーサーは勝利を確信し、中国の半島介入はないと判断しますが、中国「義勇軍」の介入により再びソウルは占拠されます。
マッカーサーは大規模な増援と原爆の使用を主張しますが、トルーマン大統領の猛反発により指揮官を解任されています。退任の際には有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という演説を行いました。
マッカーサーと日本の関係性
マッカーサーは戦後に初めて日本に来たのではなく、その前から関わりがありました。それは実に日露戦争の頃まで遡ります。
日露戦争
マッカーサーが初めて日本に来たのは1905年10月。父親が日露戦争の観戦任務の為に来日し、マッカーサーは副官でした。東郷平八郎や乃木希典等、日露戦争を勝利に導いた司令官と面談し、感銘を受けています。
戦後統治の際、マッカーサーは沖縄に降り立ちますが、幕僚の中には日本軍が暴動を起こすのではと不安視する意見もありました。マッカーサーは天皇の命で降伏した日本軍が反乱を起こす事はないと確信していました。これは日露戦争の際に日本の司令官と話をし、天皇とは何かという事をよく学んでいたからでしょう。
関東大震災
1923年に関東大震災が発生。当時フィリピンのマニラ軍管区司令官に任命されており、日本に救援物資を送っています。功績が認められ、最年少の44歳で陸軍少将に任命されています。
戦後
マッカーサーがGHQのトップに君臨して行った政策は国民の多くに支持されます。マスコミも軍の圧政から解放された事で、連日マッカーサーを持ち上げる記事を書きます。
GHQの本部にはマッカーサーの追っかけが押し寄せ、50万枚に達するファンレターが届きました。マッカーサーがアメリカに戻る際には25万人もの人々が空港までの道路を埋めて別れを惜しみました。
マッカーサーと昭和天皇の関係性について
1945年9月27日、昭和天皇とマッカーサーは初めて面会します。マッカーサーが天皇を呼ぶ事も出来ましたが、国民感情を踏みにじる事になるので、天皇自らが面会を求める事を待っていました。
会談内容は日本側とアメリカ側で食い違いはあるものの、2人は11回に渡り会談を行い、昭和天皇の存在は日本の占領統治の為に不可欠だと確信します。
マッカーサーの回顧録では昭和天皇は「自分の命と引き換えに国民の命を助けて欲しい」と述べたと書かれています。マッカーサーは「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた」と感銘を受けたのは有名な話でしょうか。
9月29日には新聞にマッカーサーと昭和天皇が並んだ写真が掲載され、国民は日本が改めて敗北した事と昭和天皇が1人の人間に他ならない事を感じます。
1951年マッカーサーは司令官を解任された上でアメリカに帰国。この時点でマッカーサーは何の権限もない外国人でしたが、昭和天皇は帰国直前のマッカーサーに謝辞を述べています。2人の間には日本を復興へと導く為に共通の意識があったのは間違いありません。
マッカーサーが行った偉業や政策
フィリピンの近代化やアメリカ軍の近代化等にも貢献していますが、日本の戦後の復興に最も貢献しています。この項目では日本における偉業や政策について紹介します。
日本人への接し方
マッカーサーは日本人の国民性をよく理解しており、天皇と総理大臣以外には原則的に会いませんでした。日本人は強い者に弱く、弱い者に強いのです。徹底的なトップダウン方針で数々の政策を断行します。
日本に民主主義を定着させ、アジアで最も早く戦後復興を遂げたのはマッカーサーが国民性や天皇制等、広い視野で日本の統治を行ったからです。
武装解除
本土や海外領土だけでなく、植民地や占領区域の武装解除を徹底させ、わずか2ヶ月で軍部を解体させます。戦前は軍部が暴走し、政治の世界にも口を出していた為、それを禁止したのです。
更に連合国軍からの意向もあり、戦争責任者(A級戦犯)を逮捕しています。A級戦犯の裁判には消極的なマッカーサーも、フィリピン戦に関わる軍人には厳しく責任を追及しています。
日本国憲法の草案の作成
マッカーサーは天皇を元首とする、戦争の放棄、封建制度の廃止という三原則を提示。ホイットニー民政局長が憲法草案を作成し、日本側も修正を加える事で現行の日本国憲法が制定されました。
民主主義の浸透
マッカーサーは満州事変以降政治から引退していたリベラル派の幣原喜重郎を呼び寄せます。口頭で五代改革(秘密警察の廃止 労働組合の結成推奨 婦人解放 学校教育の自由化 経済の民主化)を命じます。
経済の近代化
財閥や産業の解体を命じ、農地改革を断行。結果地主は没落し、小作人の地位を向上させる等、貧富の差を解消させます。
実現はされなかったものの英語の公用化や国語のローマ字化等も検討されています。こちらは日本からの意向で白紙となりました。
マッカーサーの人物エピソード
マッカーサーの母
マッカーサーが3歳の頃2番目の兄が亡くなると、母メアリーはマッカーサーを溺愛するようになります。フランスの風習に習い、6歳まで女子の格好をさせられていました。父は人格形成に悪影響を及ぼす事を不安に思い、士官学校に入学させる事を決めました。
メアリーの溺愛はその後も続き、高等学校に入学した際は近くのホテルに移り住み、学生生活を監視しており、マッカーサーのデートにも同行する程でした。陸軍に入隊後も上司にマッカーサーを出世させるよう手紙を書いています。
ただ溺愛するのではなく、厳しさも持ち合わせています。13歳の頃、新聞売りを始めたマッカーサーが同級生に販売実績で負けた際には全部売り切るまで帰る事を禁じています。
メアリーの教育により、マッカーサーは勝利への執念を持つようになり、学校の成績も飛躍的に伸びていきました。
オシャレ?な服装
マッカーサーは軍装が嫌いであり略装を好んでいました。第一次世界大戦ではヘルメットを被らずに、タートルネックのセーターとマフラーという姿で前線に出ています。そのラフな姿は元帥になっても変わりませんでした。
マッカーサーといえばサングラスとコーンパイプですが、階級が上がるにつれコーンパイプも大きくなっていきました。
マッカーサーの名言
I shall return
マッカーサーは日本との戦争においてフィリピンを死守する事が重要と述べています。しかし兵士は軍隊での訓練は殆ど出来ておらず、首都のマニラは日本軍に陥落させられました。
アメリカ軍はフィリピンを諦め、マッカーサーをオーストラリアに招集します。マッカーサーは「必ずや私は戻るだろう(I shall return)」という台詞を報道陣に述べています。
この言葉はフィリピンの国民を鼓舞させるのに一役買い、日本軍との戦いを持ちこたえる事が出来たのです。
日本人は12歳の少年である
1951年にマッカーサーは米上院にて上記の発言をしたと、日本のとある新聞が報じます。その結果日本人のマッカーサーに対する感情は一気に冷淡なものになります。しかしこの発言はマッカーサーの真意を読み取ったものではなく、長い演説の1部分でしかありません。
マッカーサーは「日本は賞賛に足る意思や学習意欲を持っており、GHQの統治により民主主義という名の自由を享受する事が出来たので世界を裏切る事はない」と演説を行います。
その発言を受けとある議員が、「ドイツは民主的なワイマール憲法があるにもかかわらずファシズムが台頭した」と指摘。「日本が民主主義を知ったとしても、いずれ軍国主義が台頭するのでは」と質問したのです。
マッカーサーはその発言を受け、
「ドイツ人は民族的には45歳の壮年であり、確信的に戦争を起こした。しかし日本人は歴史こそ古いが民族的には12歳の少年である。だからこそ、日本は柔軟で新しい考えを受け入れる事が出来た」
と言うのです。実際にはもっと長い演説でした。
マッカーサーは日本人はこれから民主主義国家の仲間入りをする若い国であると言いたかったのです。日本人は12歳と言うのは決してバカにした発言ではありませんでした。この演説はマッカーサーが日本の事を深く信頼していた証です。
文脈の一部のみを取り上げて、批判を行うのは現在でもよく行われています。メディアの情報を鵜呑みにせず、まずは意図を読み取る事が必要ですね。
他にも勝利する意志なくして戦争に突入するのは、致命的である
生きるにふさわしい者とは、死を恐れない者である
等、戦争にまつわる名言が多いですね。
マッカーサーにゆかりのある墓
バージニア州ノーフォーク市にあるマッカーサー記念館内にマッカーサーの墓があります。隣には妻ジーンの墓も存在します。マッカーサーが関与した国旗や軍旗、碑文等が墓の周りを囲っています。
ちなみにマッカーサー記念館はマッカーサーの生涯や、勲章、制服、軍帽等の貴重な私物が展示されています。
マッカーサーの妻はどんな人?
マッカーサーには2人の妻がいました。独身中は何人かの女性と交際もしており、割とモテていたようですね。
ルイーズ・クロムウェル・ブルックス(1890〜1965)
1922年にマッカーサーが42歳、ルイーズが32歳の時に結婚。ルイーズは裕福な家庭で育ち、派手好きな性格でした。性格の不一致から7年で離婚。彼の自叙伝にも書かれておらず、本人にとっては忘れたい出来事だったのかもしれません。
ルイーズは生涯を通じ4回結婚(マッカーサーは2人目)し、1人目の夫との間に一男一女をもうけます 。
ジーン・マリー・フェアクロス(1898〜2000)
1937年にマッカーサーが57歳、ジーンが39歳の時に結婚しました。太平洋戦争ではフィリピンにも同伴し、激戦のフィリピンを体験します。
太平洋戦争から日本の統治に至るまでマッカーサーを献身的に支えています。人との関わりに興味を示さないマッカーサーの代わりに、社交面を取り仕切りました。
マッカーサーが1964年に死去した後は、慈善団体に対する支援活動をする傍ら、マッカーサーの講演も積極的に行なっています。そして2000年に101歳の大往生を遂げました。
マッカーサーの子孫について
アーサー・マッカーサー4世(1935年〜)がいました。
マッカーサーの兄の子が当初はアーサー・マッカーサー4世を名乗りますが、1912年に若くに亡くなります。マッカーサーに子どもが生まれた時、アーサーを名乗る者はいなかったので、例外的にアーサー・マッカーサー4世となりました。
生涯
マッカーサーが58歳の時にフィリピンで極東米陸軍の司令官を務めていた時に生まれました。マッカーサーの転任に妻と共に同行します。日本にも住んでおり、昭和天皇とも親交がありました。
父や周囲からの期待が大きかったのか、陸軍士官学校には進学せず、ジャズピアニストの道へ進みます。マスコミから追われる日々が苦痛だったのか、後に改姓します。現在は消息不明ですが、存命なら82歳です。子どもがいるのか等も分かってはいませんね。
参考文献
https://r-ijin.com/douglas-macarthur/
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13559742/%3Fusqp%3Dmq331AQRKAGYAc640-mQg9m48gGwASA%253D
https://blog.goo.ne.jp/ptamia/e/001ccbb0f2a5ddd4fa190167214b5107
Douglas MacArthur (原著), 津島 一夫 (翻訳) マッカーサー大戦回顧録〈上〉〈下〉