千利休が戦国時代の茶人という事はご存知でしょう。千利休は茶人として秀吉の日本統一に貢献しただけでなく、日本人の価値観や精神性を塗り替える等、私達にも大きな影響を与えています。今回は千利休の生涯や偉業、死因について解説していきます。
目次
千利休とは?
千利休は戦国時代の茶人です。元々は堺の商人でしたが、茶頭として信長や秀吉に重用されます。戦国時代は茶の湯に安らぎや平穏を求める文化がありました。信長や秀吉はその文化を日本統一の為に活用し、利休を重用します。利休もまた彼らのバックアップの元に茶の湯を大成させました。後に秀吉と対立する事で切腹を言い渡され、70歳の生涯を終えました。
生まれ
千利休は1522年(1521年説あり)に堺の魚問屋の息子として生まれます。父は田中与兵衛、祖父は田中千阿弥と言います。祖父は足利義政の同朋衆(雑務や芸能に携わる人)だと言われますが、時代が合わず疑問視されています。千という姓は祖父の名前から使われました。
名前
千利休の本名は田中与四郎であり、父が死んだ際に千宗易と改名しています。千利休という名前に変わるのは1585年に正親町天皇に謁見する時です。利休は商人なので身分の差があった為、居士号である利休を勅賜されます。皆さんの知る千利休と言う名前は、晩年の名前だったのですね。
性格
利休は商人、茶人、信長や秀吉政権のスポンサーという様々な面を持ちます。
商人特有の我慢強さを持ち、茶人としてこだわりや妥協を許さない性格でした。
自分の信念を貫いた人であり、権力者に対しても媚びる事はなく、あの秀吉すらも「利休居士」と尊称で呼んでいます。
身長
利休の甲冑から推定すると180cm程の身長だと言われています。当時の成人男子が150cm半ばなので、かなりの大男です。
利休死後100年後に成立した「南方録」にも大柄であった事が記されていますが、こちらは利休へ回帰する目的で作られた書物であり、完全に鵜呑みには出来ません。
ちなみに秀吉の身長は140cm程と言われ、かなりの身長差がありました。
千利休の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1522年 | 誕生 |
1538年 | 茶の湯を初めて習う |
1540年頃 | 父親と祖父が相次いで亡くなる |
1569年 | 堺が信長の直轄地となる |
1575年 | 越前一向一揆の掃討戦の為、信長に鉄砲玉を調達 |
1582年 | 本能寺の変。以降は秀吉に仕える |
1583年 | 秀吉に命じられ待庵を完成させる |
1585年 | 利休の名を勅賜される |
1587年 | 北野大茶湯を主管する |
1591年 | 秀吉に切腹を命じられる 享年70歳 |
茶の湯の出会い
利休は1522年に堺で裕福な魚問屋の息子として生まれます。界は戦国時代にありながら大名の支配を受ける事なく、商人が自治を行い、浪人が街の周囲を警備する等、独立国に近い立ち位置でした。商人として成功するには優れた教養や品位が必要であり、利休は16歳で茶の湯を習います。
商人として財を成す
19歳頃に父と祖父が相次いで死去。その後の生活は厳しく、祖父の7回忌に法事が出来ず、泣きながら墓掃除をしたエピソードが伝わります。その後は茶の湯を極めつつ、三好氏の御用商人となり財を成しました。
信長に重用される
1569年には織田信長が堺商人の財力に目をつけ、堺を直轄地とします。信長は堺商人の茶の湯にも目をつけ、名品を買い付けます。許可を与えた家臣にだけ茶会開催を許可したり、武功の褒美に高価な茶碗を与える等、茶の湯を政治的駆け引きにも利用しました。
信長は今井宗久、津田宗及、利休を茶頭(茶の湯の師匠)として重用。1575年には越前一向一揆の掃討戦の為、信長に鉄砲玉を調達する等、利休は信長のスポンサーとしても活躍しました。
秀吉に仕える
1582年に信長が本能寺の変で自害すると、秀吉のが利休を取り立てました。秀吉は信長以上に茶の湯に熱心でした。
1583年以降は近江城や大阪城等、秀吉は様々な場所で茶会を開き、利休は茶頭を努めます。1585年には関白就任に伴う正親町天皇への献茶を利休が取り仕切り、その際に「利休」の名を勅賜します。1587年には秀吉は九州を平定し、北野天満宮で「北野大茶湯」を開催し、利休は主管を務めました。
秀吉に感化された多くの武将は利休に弟子入りし、結果的に秀吉の日本統一に大きな影響力を与えます。秀吉からの信任も厚く、同じく懐刀であった豊臣秀長は「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と大友有隣に伝えています。
秀吉との対立
しかし良好な関係も長くは続きませんでした。秀吉は刀狩りや太閤検地等の政策を行い、身分社会を徐々に強めていきます。茶の湯の世界に身分は関係ないという利休の思想とは相反するものでした。
また貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くする等、思想的にも政治的にも2人は対立していきます。1591年1月には豊臣秀長が病没し、利休は後ろ盾を失ってしまいます。その後の2月に利休は謹慎を言い渡され、京都から追放されます。秀吉は利休が謝罪に来ると思っていたようですが、利休はそのまま堺に戻り、秀吉は激怒します。程なく切腹を言い渡されるのです。
利休の死因・最後
利休の切腹に対して、秀吉の多くの家臣は助命嘆願しましたが、願いは叶いませんでした。2月26日に利休は上洛を命じられ聚楽屋敷に戻りますが、その屋敷は上杉景勝の軍勢により厳重に警備されました。
28日には切腹が言い渡されます。利休が腹を斬った後、弟子でもある蒔田淡路守の介錯により、首を斬り落とされました。享年69歳でした。
秀吉は届けられた利休の首に鎖をつけて、大徳寺の利休像に結び付けて晒しものにしたと伝わっています。
利休は何故切腹を命じられた?
利休が切腹を命じられた理由は実は明らかにされておらず、様々な説があります。
・大徳寺の木造
利休は大徳寺の山門の改修に資金援助をします。住職の古渓宗陳は感謝の意を込めて、山門の上に利休の像を作りました。秀吉はそれに激怒し「山門の上に像があるのは、貴人が山門をくぐる時に頭を踏みつけているのと同じ」と主張します。
利休は権力者に媚びる事はなく、自分が正しいと思った事は主張を曲げません。秀吉が像に対して激怒しても、謝る事はなかった為切腹を命じたというものです。
秀吉の主張は言いがかりに近いですが、昔から広く伝わる説です。
・思想の違い
利休は侘び寂び等の質素な茶道を好みますが、秀吉は利休に黄金の茶室を作らせる等、派手な茶道が好みでした。利休が切腹を命じられる直前の茶会では、秀吉が派手好きと知りながらも「黒は古き心なり」と黒楽茶碗に茶をたて豊臣秀吉に出しています。これらの思想の違いが激怒する原因になったと言う説です。
他にも豊臣秀長死去後の政治闘争に巻き込まれたと言う説や、利休の権力が増大したのを秀吉が恐れたと言う説もあります。
真相は闇の中ですが、1つのエピソードだけでなく、様々な事柄が合わさって起きた事かもしれません。
千利休の人物エピソード
利休には茶の湯にまつわるエピソードが数多くあります。今回はその中の一部だけ紹介しましょう。
シンプルな美
利休は不完全なもの、質素なものに美しさを見出していました。ある人が「利休の庭に見事な朝顔が沢山咲いている」と秀吉に伝えます。秀吉は朝顔を見に利休宅に行くと、庭には朝顔は咲いておらず、秀吉は不機嫌になります。
ところが小座敷に入ると、そこには見事な一輪の朝顔が床の間に生けてありました。沢山の朝顔が咲いているのも良いですが、一輪だからこそ輝く美しさもあるのです。
秀吉はその朝顔をみて上機嫌になり、利休に褒美を授けたそうです。
最後の矜持
利休が切腹を命じられた際、3人の使者が屋敷に訪れその事を伝えました。使者も利休を尊敬していたので、その気持ちは無念の一言だったでしょう。
そんな利休は動じる事なく、彼らに「茶の湯の支度ができております」と伝えます。死の間際でももてなす心を忘れませんでした。利休は最後まで茶人としての矜持を貫いたのです。
千利休の茶室
1582年に豊臣秀長は利休を取り立てて早々に茶室を作る事を命じます。そうして完成したのが待庵です。
待庵への入り口はにじり口と呼ばれ、縦横60cm程しかありません。その為頭を下げて入る必要があります。また刀を置く場所がかつてはありました。これは身分階級の違う人でも茶室では皆平等という利休の考えに基づいています。
室内は全体で4畳半、茶席はわずか2畳の空間であり、水墨画の掛け軸があるだけです。また小間と言う窓があり、室内に入る光をコントロールしています。
質素簡略の境地を重んじ、後の国数寄屋造りの原点となりました。侘び寂びの精神を忠実に再現したこの茶室は後に国宝に認定されます。
待庵自体は妙喜庵の中にある建物の1つです。見学は可能ですが、ハガキでの応募なので1ヶ月程待つ必要があります。待庵以外にも近くには大山崎町歴史資料館で当時の貴重な資料が残されています。
住所:京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56
千利休が行った偉業・逸話
茶人としての偉業
応仁の乱が始まった1467年以降、日本は戦国時代が始まります。死と隣り合わせの日々の中で戦国武将達は茶の湯の中に癒しを求めました。利休は茶の湯を通じて、人の儚さ、無常である事を美しいと感じる侘び寂びを体系化させました。これは現在にも繋がる日本人特有の価値観であり、日本人の感性そのものを決定づけたのです。待庵の設計や、一期一会の考え方等は現在では日本のみならず、世界中で支持されています。
参謀としての利休
利休は茶人としてだけでなく、信長や秀吉の参謀としても活躍しています。信長は茶の湯を積極的に大名の統治に利用しました。また商人としての財力の影響力も大きく、越前の一向一揆も利休の財力がなくては成功しませんでした。
利休の参謀としての才能は秀吉に仕えてから開花します。多くの大名が秀吉の配下になったのは、茶会による影響が大きいのです。出陣の前に茶会を催したのは、狭い空間で武将達の心の奥を読み解く狙いもありました。利休は秀吉や信長の天下取りに大いに貢献したのです。
千利休の名言
日本随一の文化人である利休には多くの名言があります。僅かですが紹介しますね。
上手にはすきと器用と功積むと この三つそろふ人ぞ能くしる
物事が上手になるには、好きである事、器用である事、努力をする事です。器用とは道具の使い方や人間関係等を表しているでしょう。利休が茶の湯を愛していたかがよく分かりますね。
一生に一度しかない、今この時の出会いを大切にしようとする「一期一会の精神」が大切なのではないでしょうか
一期一会は生涯で一度きりの出会いを大切にしたいという精神ですが、初めての人に使うものではありません。同じ人でもその時の出会いは一度きりしかありません。身近な人でも、毎回の出会いを大事にしようと言う意味が込められています。
厳密に言えば利休は一期一会という言葉を文章には残していません。山上宗二という利休の弟子が書き記した文章に残されている言葉です。
利休のおもてなしの精神は弟子や息子を通じて現在にも受け継がれています。
千利休にゆかりのある寺院・神社・墓
南宗寺
三好氏の菩提寺であり、1557に大林宗套を開山として建立されています。利休が茶の湯や禅の修行をした寺としても知られ、遺髪が埋葬された供養塔が存在します。
住所:大阪府堺市堺区南旅篭町東3-1-2
晴明神社
陰陽師でも有名な安倍晴明を祀る神社です。かつて利休はこの神社内に屋敷を構えていました。晴明神社の奥にある二の鳥居の近くに石碑があり、そこに記されています。
この地には安倍晴明が念力で水を湧き出したという晴明井があり、利休は茶の湯に必要な水をこの井戸から用意していました。この水は現在でも飲むことができ、病気平癒などの信仰があります。
住所:京都市上京区堀川通一条上ル晴明町806
大徳寺聚光院
利休の切腹の原因になったとされる大徳寺ですが、敷地内にある聚光院に利休のお墓があります。聚光院自体は三好義継が父の菩提を弔う為に作られたものです。
この地には利休のみならず、子孫の茶道三千家歴代のお墓があります。利休のお墓はその墓所の中央にあり、最も大きな仏塔です。
普段は一般公開されていませんが、毎月28日が利休忌であり、この日は一般の方も法要と茶会が開かれます。
茶会は三千家が交代で行なっており、開始時間や御供(料金)は異なりますが、大体10時頃から始まり、御供も千円から3千円程です。
住所:京都市北区紫野大徳寺町53
千利休の子孫について
利休には2人の妻がいました。1人目の妻はお稲と言い、一男四女をもうけますが、1577年に亡くなります。2人目の妻はおりきと言い、1578年に嫁ぎますが、小庵という連れ子がいました。他にも名前の不明な妻がいたとされています。
千道安(1546年〜1607年)
お稲の長男であり、千家の嫡男でしたが、利休が再婚すると仲が悪くなり家を出ます。利休とは和解しますが、連れ子の小庵とは最後まで折り合いが悪かったのです。利休切腹後に謹慎を命じられるも、1594年に赦され堺に戻り千家を継ぎます。道安の家柄は堺千家と呼ばれました。
彼もまた優れた茶人であり、秀吉の茶頭八人衆にも数えられます。その工夫は簡素さの中に力強さを求める動の精神でした。1607年に死去。嫡子はおらず堺千家は断絶します。
千小庵(1546年〜1614年)
おりきの連れ子であり、道安と同い年でした。利休から茶の湯を習い、才能を開花させます。利休切腹後、謹慎していましたが1594年に赦され京千家を興します。秀吉と利休のやり取りをみており、生涯士官はしませんでした。小庵は利休の娘お亀と結婚し、宗旦が生まれます小庵の茶の湯はより侘び寂びを求める静の茶の湯と評されています。
宗旦の子孫
宗旦(1578年〜1658年)は1600年に家督を継ぎますが、秀吉と利休のやり取りを見ていた事と、鬱傾向な性格の為、生涯士官はしませんでした。
宗旦自体は多くの子どもに恵まれます。宗拙(1592年〜1652年)は勘当されたものの、3人の息子は分家する事で血筋を今に伝えています。
次男の一翁宗守は武者小路千家を興します。現在の当主は15代目で方可(1975年〜)が継いでいます。京都国際観光大使や慶應義塾大学の特任准教授を務めています。
三男の江岑宗左は表千家を興します。現在の当主は15代目の宗員(1970年〜)です。表千家同門会専務理事、不審菴文庫長等を歴任しています。
四男の仙叟宗室は裏千家を興します。江戸時代に断絶の危機がありましたが、表千家から養子を取る事で存続させています。現在の当主は16代目の千政之(1956年〜)で、随筆集を多数表す他、京都造営芸術大学の教授を務めています。
利休の娘
娘は6人おり、皆が茶人に嫁いでいるとされます。
長女は名前がわかりません。利休の甥で茶人の千紹二に嫁ぎます。
次女も名前がわかりません。利休の弟子の万代屋宗安に嫁ぎます。秀吉が側室になるよう誘われたが、利休共に断った為、利休の切腹の原因になった説があります。
三女の三は、従弟の石原良叱に嫁ぎます。
四女の吟は本能寺の僧侶円乗坊宗円に嫁ぎます。優秀な茶人で、利休から茶の湯の奥義を教わったと言われます。
五女は名前が分からず、母親についても不明で謎が多いです。魚屋与兵衛に嫁いだとされます。
末女は亀と言い、小庵に嫁いでいます。
参考文献
https://senjp.com/rikyu/
https://history-land.com/rikyu-mystery/
https://festy.jp/web/posts/1000840
https://ie-cafe.net/sennnorikyuu-myoukianntaiann-2jou/
http://tokubooan.jp/archives/691
https://syukatsulabo.jp/article/2257
木村宗慎:ペンブックス6 千利休の功罪。 (Pen BOOKS)