山本五十六の生涯と人物像|映画・死因・子孫・名言も解説

山本は明治から昭和初期の海軍軍人です。山本は早い時期から「戦闘機が主力となる航空主兵論への転換」を唱え、太平洋戦争の幕開けとなった真珠湾攻撃の計画も主導しています。

山本は後に戦死するものの、最期まで最前線で指揮を執り続けた英雄でした。今回は太平洋戦争の象徴とも言える山本五十六の真実の姿に迫ってみたいと思います。

山本五十六とは?

山本五十六とは?

(往年の山本五十六 出典:Wikipedia)

 

氏名山本五十六
通称・あだ名おやじ
出生日1884年4月4日
出生地新潟県古志郡長岡本町(現・新潟県長岡市)
死没日1943年4月18日
死没地ソロモン諸島 ブーゲンビル島上空
血液型O型
職業海軍軍人
身長1m60cm
体重65kg
配偶者山本礼子
座右の銘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

山本五十六の人生年表・生涯

山本五十六の人生年表・生涯

(海軍旗 出典:Wikipedia)

 

山本五十六の年表

出来事
1884年4月4日新潟県古志郡長岡本町に高野貞吉の六男として誕生。
1901年海軍兵学校に32期生として入校(200名中2番の成績)
1905年日露戦争・日本海海戦で敵防弾により重傷を負う。
1910年海軍大学校に乙種学生として入校
1914年海軍大学校に甲種学生として入校
1915年山本家を相続し翌年山本姓に改める
1917年三好礼子(みよしれいこ)と結婚
1921年海軍大学校教官へ転属
1924年霞ヶ浦海軍航空隊へ配属
1929年海軍軍令部及び海軍省軍務局勤務
1930年海軍航空本部へ転属
1933年第一航空戦隊司令官に着任
1934年ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に海軍側首席代表として参加
1935年海軍航空本部長に就任
1936年海軍次官に就任
1938年海軍次官のまま海軍航空本部長を兼任
1939年第一艦隊司令長官兼任で連合艦隊司令長官に任命される
1940年日独伊三国同盟が締結される。同年に大将に昇進
1941年連合艦隊司令長官に再任。12月に太平洋戦争開戦
1942年5月8日珊瑚海海戦で米豪艦隊と戦闘
1942年6月5日ミッドウェー海戦
1942年8月ガダルカナル島攻防戦開始
1942年11月12日第三次ソロモン海戦
1943年2月1日ガダルカナル島撤収作戦 (ケ号作戦)
1943年4月7日ソロモン、ニューギニア方面のアメリカ艦船、航空兵力を撃破するい号作戦を決行
1943年4月18日ブーゲンビル島上空で乗機が撃墜され戦死

 

幼少期の山本五十六

幼少期の山本五十六

(新潟県長岡市 出典:Wikipedia)

 

山本五十六は1884年4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目)で旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生します。生まれたときの貞吉の年齢が56歳であったため五十六と名付けられました。

 

子どもの頃の山本は「鉛筆を食べるのは無理だろう」と友達にからかわれると鉛筆を食べたと言われるほどの負けず嫌いと伝わっています。反面、米国人宣教師のもとで聖書を学ぶ一面も持っていました。

 

山本が海軍軍人を目指したのは、長岡中学校在籍中。海軍士官学校を目指しながらも若くして病没した甥の影響を受けて軍人を志すようになったと言われています。

海軍軍人となる

海軍軍人となる

(1905年の山本五十六 出典:Wikipedia)

山本は1901年に200人中2番という好成績で海軍士官学校に進学。同期には同志となる堀悌吉の他、東條英機内閣の海軍大臣を務めた嶋田繁太郎がいます。山本は1904年11月に卒業生192名中11番で海軍士官学校を卒業し、少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船しています。

 

この頃は日露戦争の真っ只中であり、若き山本は装甲巡洋艦「日進」の乗組員として日本海海戦に従軍しています。その時に左手の人差し指と中指を欠損し、更に右下腿部に大やけども負いました。左腕切断の可能性もあったものの、なんとか回復しました。

 

その後は防護巡洋艦「須磨」、戦艦「鹿島」、海防艦「見島」、駆逐艦「陽炎」などの軍艦に乗船。軍人としての資質を磨いていきます。1911年5月に海軍砲術学校高等科、1913年12月には海軍大学校に入学する等、キャリアも培っていきました。

 

この頃には教壇にも立ち、海軍砲術学校教官兼分隊長、海軍経理学校教官となっています。この時の同僚が共に様々な難局に立ち会う同志になる米内光政でした。

山本五十六となる

山本五十六となる

(1910年ごろの山本五十六 出典:Wikipedia)

 

1916年に山本は元長岡藩家老・山本帯刀の養子となり、山本家の家督を継ぎます。この時にようやく「山本五十六」は誕生しました。

更に山本は1918年に会津藩士・三橋康守の三女である三橋礼子を妻に迎えています。この時山本は35歳、礼子は23歳でした。

ただ山本はずっと多忙な日々が続いており、1919年4月5日にアメリカ駐在武官に就任し、翌月にはアメリカに渡米。この頃の山本は油田や航空機の視察や調査を行い、アメリカの国力の大きさや航空機の重要性も体感しています。

やがて帰国した山本は、1924年9月に霞ヶ浦航空隊所属になりました。兼ねてから航空機の必要性を感じていた山本は、この所属先で航空の学習をするつもりだったのです。

艦隊派と条約派の争い

艦隊派と条約派の争い

(ロンドン滞在時の山本五十六 出典:Wikipedia)

 

1929年11月に山本は少将に昇進し、ロンドン海軍軍縮会議に随行。この会議はアメリカやイギリスと補助艦の割合を定める会議であり、1922年には主力艦の割合を話し合うワシントン軍縮会議が開催された事もありました。

 

ワシントン海軍軍縮会議で日本と米英の主力艦の割合は10:6と決められた事があり、今回の会議では軍令部は「絶対に7割にふり事」と要望がありました。結果的に全権達は6.975割まで持っていくものの、軍令部は良しとしません。

 

最終的には当時の総理大臣だった浜口雄幸が条約に調印。海軍内では条約に賛成の条約派、艦隊の割合にこだわる艦隊派に分裂します。派閥争いは艦隊派が勢力を拡大した結果、条約派に属する多くの人材が左遷や予備役に回されました。

 

山本はアメリカの留学経験があり、思想的には条約派に属していました。しかし山本はロンドン海軍軍縮会議で強硬に「対7割」を主張しており、艦隊派に属していると思われ、この左遷人事を免れています。

 

山本は条約派で将来を期待されていた堀悌吉中将が、予備役に左遷された事に失望。一度は海軍を辞める事さえ考えていました。

政治面にかかわっていく

(山本五十六と米内光政 出典:Wikipedia)

(山本五十六と米内光政 出典:Wikipedia)

 

山本は1936年12月に海軍次官に就任し、政治の世界にも深く関与していきます。翌年の2月に発足した林銑十郎内閣の海軍大臣に、条約派に近い思想を持つ米内光政を入閣させています。

やがて1937年7月に日中戦争が勃発しますが、この戦争の背景にはイギリスやアメリカが中国の後方支援に回っており、戦争は長期化していきます。

この時に戦争を優位にする為に「ドイツと同盟を組むべき」という日独伊三国同盟が陸軍内に浮上。山本や米内はアメリカの強さを知り尽くしており、「ドイツとの同盟は米英を敵に回す」としてこれに強く反対しています。

 

結果的に1940年9月27日に同盟は締結。アメリカとの仲は悪くなりました。この頃からアメリカとの戦争は避けられない状況になっています。

山本は当時の総理大臣・近衛文麿に「初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願いたい。」と述べています。

太平洋戦争勃発

(真珠湾攻撃 出典:Wikipedia)

(真珠湾攻撃 出典:Wikipedia)

 

1941年1月に山本は来たるアメリカとの開戦に向けて「真珠湾攻撃」の作戦を練りました。1939年から山本は連合艦隊司令長官という立場におり、作戦を練る立場にいたのです。真珠湾攻撃は航空機を使用し、空爆での奇襲をベースにしたもの。

当時はまだ艦隊での戦闘が主流であり、真珠湾攻撃に否定的な見方もありました。ただ山本は自らの進退を辞さない覚悟で、真珠湾攻撃を行う事を主張しています。

結果的に日本はアメリカとの開戦を決定。1941年12月8日に真珠湾攻撃は実行されます。この時に日本はアメリカに「最後通牒」を行なった上で攻撃を行う筈でした。しかし最後通牒は遅れてしまい、日本は「騙し討ち」という形で太平洋戦争を始めてしまいます。

太平洋戦争の指揮を執る

真珠湾攻撃以降、日本は連戦連勝を続け戦争を優位に進めました。しかし1942年6月5日のミッドウェー海戦で日本は敗北。その後の日本は劣勢を強いられます。山本はその後も南太平洋海戦やい号作戦等を主導。日本の戦局の打開を図っていくのでした。

山本五十六の死因と最期

(撃墜された山本長官搭乗機 出典:Wikipedia)

(撃墜された山本長官搭乗機 出典:Wikipedia)

 

山本は1943年4月18日にソロモン諸島ブーゲンビル島上空で、アメリカ軍戦闘機に追撃されて戦死しました。

山本率いる連合艦隊は10日前の4月7日から、空母の艦載機と基地の航空兵力で、ガダルカナル島やニューギニアのアメリカ軍戦力を叩く「い号作戦」を実行しています。この時に日本はソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えました。

この作戦はある程度の成果を上げ、山本は前線にいる将兵の労をねぎらうために、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てました。しかしこれらの視察の計画はアメリカ海軍情報局に傍受されており、情報は筒抜けになっていたのです。

アメリカ海軍は山本を殺害するべきかを検討し「真珠湾攻撃を計画した山本が戦死すれば日本への精神的ダメージが大きい」「山本より優れた者が後任となる可能性は低い」と結論。山本を殺害する事が決まるのです。

海軍甲事件

(山本の国葬 出典:Wikipedia)

(山本の国葬 出典:Wikipedia)

 

4月18日午前6時。ラバウル基地から飛び立った山本五十六一行が搭乗した一式陸上攻撃機2機と護衛機6機は、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃されます。

山本の遺体は翌日に発見。機体の傍に放り出された座席に座り、右手で軍刀を握っていました。公式の記録では山本は即死だったと言われるものの、当初生存していたという説もあり、真偽は分かっていません。

6月5日には日比谷公園で国葬が行われています。皇族でも華族でもない平民が国葬で見送られるのは、この時は最初で最期でした。それだけ山本が多くの人に慕われていた事が分かりますね。

山本五十六の性格

海軍の皆から慕われた

(1941年ごろの山本五十六 出典:Wikipedia)

(1941年ごろの山本五十六 出典:Wikipedia)

 

連合艦隊作戦参謀として山本に接した三和義勇少将は「当初は取っ付き難い人だったが、3ヶ月もすれば尊敬の念を抱くようになった。己に厳しく他人に寛大で任務には忠実、間違いなく太平洋戦争当時日本海軍最高の指揮官であった」と評しています。

第一航空艦隊参謀長、第三艦隊参謀長などで山本を支えた草鹿龍之介中将は「上官、人間として情実があり立派な人物であったが、実戦向きではなく政治家タイプだった」と語っています。

海軍省副官として海軍省次官時代の山本の側にいた横山一郎少将は「軍を統率し部隊をまとめあげる能力は申し分なく立派に尽きる、ただし作戦立案に関しては落第点である」と述べています。

森田貫一中将は「山本に半年仕えれば、一体感を持つようになる」と語っています。山本は作戦立案や実戦向きの軍人ではなく、軍政や軍の統率に優れた人物だった事が分かりますね。

部下思いの一面も

山本は戦死した部下の華族に手紙を書き、自ら墓参りに行く事もありました。空母「赤城」艦長時代に艦載機1機が行方不明になった時、山本は食事が喉を通らずに涙をこぼしています。

また山本は戦死者の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携帯していました。その手帳の中には名前だけでなく、部下の賛辞や死の決意等がびっしりと書き込まれていたそうです。

山本が多くの人達に慕われた理由が良く分かります。

山本五十六の功績

真珠湾攻撃を主導

(日本海軍機の空襲を受けて炎上する軍艦 出典:Wikipedia)

(日本海軍機の空襲を受けて炎上する軍艦 出典:Wikipedia)

 

太平洋戦争は12月8日に各地で戦端が開かれる事で勃発しますが、その中の一つが真珠湾攻撃でした。この真珠湾攻撃で日本は真珠湾に停泊中するアメリカ太平洋艦隊を次々と攻撃。アメリカの主力艦を次々と撃沈しています。

結果的に日本は騙し討ちという形になるものの、その後の日本の戦局が優位になった事は確かです。この真珠湾攻撃を経て山本の作戦立案能力は大きく買われる事になりました。

海軍航空隊の育成

山本は早くから航空機の必要性と将来性を見抜いていました。1930年12月に海軍航空本部技術部長に就任すると戦闘機の開発を主導。戦闘性能を高める工夫を凝らした航空機の開発に大きく貢献しています。

真珠湾攻撃やその他の戦争で日本が優位な立場に立てたのは、山本の先見の明があったからでした。

米内光政を海軍大臣に駆り出す

(米内光政 出典:Wikipedia)

(米内光政 出典:Wikipedia)

 

山本は海軍次官に就任すると、連合艦隊司令長官だった米内光政中将を海軍大臣に就任させています。米内は山本と同じく国際的な視野を持つ人物で、アメリカとの戦争やドイツとの同盟に反対していました。

結局日本は日独伊三国同盟を締結するものの、山本や米内の姿勢を昭和天皇は高く評価しています。米内は後の終戦工作に大きな影響を与えた人物でもあり、山本が米内を海軍大臣に見出した事は大きな意義があったのです。

山本五十六のエピソード・逸話

(私服を着る山本五十六 出典:Wikipedia)

(私服を着る山本五十六 出典:Wikipedia)

 

非常にオシャレでよくモテた

山本は非常にオシャレだった事が伝わっており、特製のサージの軍服は逆光で青色に光っていました。更に1日5足以上の靴を履き替えていたそうです。靴についてはオシャレというよりは、靴の中が熱くなる事を嫌ったそうですが。

そんな山本なので、愛人が存在したと伝えられています。結婚した翌年には出張先の佐世保で16歳年下の鶴島正子と男女の関係になりました。その後は転属や多忙により関係は疎遠となりますが、交流自体は絶えることなく続き、鶴橋正子が山本五十六から受け取った手紙はスーツケース一杯にもなったと言われています。

その他には1930年頃には東京新橋の芸者である河合千代子と深い関係になっていました。二人は「お兄ちゃん」「妹」と呼ぶほどに仲が良かったそうです。山本の死後、河合千代子は海軍省から強く自決を迫られましたが、山本五十六の遺品や手紙を全て海軍省に提出しこれを拒否。1989年に死去した際には、山本の遺髪と共に葬られました。

博打の才能に優れていた

山本は博打が好きで、特にトランプのポーカーやブリッジを好んでいました。週末になると今村均陸軍大将、安達二十三陸軍中将らと自宅で興じていた事が伝わっています。

山本の博打の腕前は本物で、モナコに滞在時はあまりに勝ちすぎる為、カジノ協会からカジノの出入り禁止令を受けた事もあります。山本は退官後はモナコに住んでルーレットで大金持ちになると豪語していましたが、これらの夢は戦死により叶わぬものとなったのです。

下戸の甘党

花柳界でよくモテた山本ですが、お酒はほとんど口にせず下戸であったとも言われています。そのため、番茶を入れた徳利を持ち歩いていた証言もあります。

その代わり山本は大の甘党で、特に水饅頭や柿、南方ではパパイヤを好物としていました。山本の副官は虎屋の羊羹を切らさないことが厳命されており、山本を訪問する将官は甘いもののお土産を必ず持参していたそうです。

山本の故郷の特産であるあめ最中も大好物で、新潟市白山駅の「渡辺あめや」には山本が送った礼状が飾ってあります。

山本五十六の名言

(山本五十六最期の写真 出典:Wikipedia)

(山本五十六最期の写真 出典:Wikipedia)

 

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

山本を代表する名言であり、企業の幹部育成の指針や自衛隊の教育方針としても用いられています。インパクトもあるのか、車のステッカーなど、一風変わった商品としても製品化されました。

この名言は江戸時代の名君・上杉鷹山(うえすぎようざん)「してみせて、言って聞かせて、させてみる」に多分な影響を受けた言葉です。同僚や部下を人間的魅力で引き付けた山本五十六が発すればこその言葉ですね。

中才は肩書きによって現れ、大才は肩書きを邪魔にし、小才は肩書きを汚す

意味は「ほどほどの才能を持つ者は肩書きをさらに輝かすことができる。大きな才能を持つ者にとって肩書きは邪魔なものであり、全く才能のない者に肩書きを与えるとかえって汚される結果になる」です。

これはアイルランドの文学者でノーベル文学賞を受賞したジョージ・バーナード・ショーの言葉ですが、山本は好んでこの言葉を使ったそうです。山本が文学の素養にも優れていた事が良く分かります。

博打をしないような男はろくなものじゃない

山本は博打が趣味なだけでなく、軍人として一か八かの博打が出来ない人物はダメなやつと考えていたようです。それが後の真珠湾攻撃等に繋がっているとも言えますね。

山本五十六の家系図・子孫

高野家

前述した通り山本は越後長岡藩の高野家の出身です。高野家の本来の姓は宇津氏であり、先祖はもともと信濃上田藩主・真田信之の家臣でした。縁あって1648年に越後長岡藩主に仕える事になり、高野姓に改称しています。

その後の高野家の当主達は、郡奉行や勘定方支配等の役方を勤めていました。

山本家

山本五十六は1915年に山本家を相続しています。山本家は源満政を祖とする清和源氏の一族です。江戸時代に牧野家が越後長岡藩の藩主になると、山本家は上席家老職を世襲する一族となりました。

しかし越後長岡藩は戊辰戦争で旧幕府軍側についており、後に山本家は家名断絶の憂き目を見ています。牧野家は山本家の再興の為に尽力しており、山本の相続は牧野家の悲願でもありました。

山本の妻と子ども

(山本五十六と妻・礼子 出典:Wikipedia)

(山本五十六と妻・礼子 出典:Wikipedia)

 

山本は福島県の三橋康守氏の三女である礼子と結婚。4人の子供に恵まれました。子供達の名前は以下の通り。

長男 義正
長女 澄子
二女 正子
二男 忠夫

この中で子孫としてよく知られているのは、長男の義正です。義正が誕生したのは1922年で、亡くなったのは2014年。かなり最近まで存命でした。義正は山本が40歳の時の子で、結婚して5年目の待望の子供です。

義正は海軍兵学校を目指したものの、近眼と肋膜炎で旧制成蹊高等学校理科甲類に入学。戦後に東大大学院を経て北越製紙などに勤めています。

山本の現在の子孫

山本の子孫は現在も健在です。義正の息子は源太郎(1961〜)といい、たびたびメディアの取材にも答えています。毎年4月18日に行われる山本の法要にも参加し、後述する山本五十六記念館の館長になる等、山本の偉大さを後世に伝える役目を担っています。山本の子孫達には、山本の意志をいつまでも受け継いで欲しいものですね。

山本五十六のゆかりの地

多磨霊園

(多磨霊園にある山本五十六の墓 出典:Wikipedia)

(多磨霊園にある山本五十六の墓 出典:Wikipedia)

 

山本は国葬後に多磨霊園に埋葬されます。墓の右には東郷平八郎元帥、左には古賀大将と日本を代表する海軍軍人が埋葬されており、山本の偉大さが分かります。

墓石の文字は盟友である米内光政大将が書いた他、国葬の葬儀委員長も米内が務めました。

住所:東京都府中市多磨町4-628 7区特種1側2番

長興寺

後に山本の遺骨は地元長岡にある長興寺に戻されています。山本の墓の隣には、戊辰戦争で長岡藩の家老だった山本帯刀の墓もあります。

2004年の新潟県中越地震の影響で墓石が全て倒れる事もありましたが、現在は復旧を遂げました。多磨霊園も長興寺のどちらにも献花は絶えず、山本が未だに慕われている事が分かります。

住所:長岡市稽古町1636

山本五十六記念館

(山本五十六記念館 出典:Wikipedia)

(山本五十六記念館 出典:Wikipedia)

 

山本五十六記念館は山本の地元長岡で1999年に開館されました。2021年4月から館長には孫の源太郎氏が就任しています。

この記念館には山本が戦死した時の搭乗機の左翼や座席の他、直筆書簡やパスポートが展示されています。激しい戦争の様子や山本の人となり等が分かり、山本を敬愛するなら是非とも訪れたい場所です。

住所:新潟県長岡市呉服町1

ちなみに記念館のすぐ近くには山本記念公園があります。こちらには復元された山本の生家や、山本の銅像も建てられています。

山本五十六の関連人物

東郷平八郎

東郷平八郎

東郷平八郎(出典:Wikipedia)

 

東郷平八郎は日露戦争における日本海海戦で、歴史的勝利を収めた人物です。山本もまた日本海海戦に従軍し、日本の勝利に大きく貢献しました。

しかし東郷は後に神格化され、海軍内ではいかなる案件も東郷にお伺いをたてる事が慣例化します東郷の意向で堀悌吉や山梨勝之進などの同志は追放されてしまった為、山本は東郷にあまり良い感情を抱いていませんでした。

東郷の死後に東郷神社が建立されると「拝めば何か御利益があるだろうよ」と皮肉めいた発言もしています。ただ東郷も自分の神格化には良い感情を持ってはいません。後に山本も真珠湾攻撃で神格化された時には「俺は神様でも何でもないんだ」と、明確にその立場に不満を述べています。

後に山本が戦死した時、山本神社を建立する話が持ち上がります。この時には米内光政等、山本の意思を知る者がこれに強く反対。神社は建立される事はありませんでした。

乃木希典

乃木希典

乃木希典(出典:Wikipedia)

 

乃木希典は日清戦争や日露戦争で大きな功績を残した陸軍軍人です。米内は乃木を尊敬していた事は多くの友人が知っていました。山本は友人の歌人から「乃木将軍を 稍々口悪く 素気無く描けば そこに山本がいる」と評されています。

山本五十六の関連作品

山本五十六は太平洋戦争期をテーマにした作品には必ずといって良いほど登場します。その為、様々な媒体で様々な山本像を見る事が出来るのです。今回は山本にまつわる関連作品をほんの一部だけ紹介しましょう。

おすすめ書籍・本・漫画

山本五十六

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阿川弘之の歴史小説。彼は山本五十六の他、米内光政と井上成美という海軍左派三羽ガラスと呼ばれた人物たちの作品も書いています。私達が持つ山本五十六のイメージを作り上げた作品です。

表面的な功績だけでなく、山本の内面にも鋭い描写がされており、山本達の苦悩が痛いほどに伝わってきます。前編と後編があるものの、すぐに読み終えてしまうでしょう。

父 山本五十六

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山本五十六の息子である義正が執筆した書籍です。誰よりも戦争に反対する中で、戦争を仕掛けた張本人となる山本五十六。その苦悩を息子という立場から掘り下げています。

聯合艦隊司令長官 山本五十六

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山本五十六の生涯を漫画にした作品。前編後編に分かれており、前編は山本の前半生、後編は太平洋戦争の頃の様子が描かれます。絵も綺麗ですし山本の生涯を知りたい人にはオススメの作品でしょう。

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山本の生涯を役所広司が演じています。太平洋戦争も描かれるものの「山本の生涯」に主眼を置いた作品であり、カジノや甘党という山本の人物像にも比重が置かれ、バランスのとれた作品です。2時間半にのぼる大作ですがテンポよく進む為、あっという間に観る事ができるでしょう。

アルキメデスの大戦

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数学の天才・櫂直海軍軍人が戦争を阻止するべく奔走するフィクション作品です。本作で山本は櫂直を見出したキーパーソンとして登場しています。作品としては大規模な海戦ではなく、軍内の駆け引きが中心ですが、推理物などを好む人にはとことんハマる作品でしょう。

ちなみに山本を演じているのは舘ひろし。この他にも多くの海軍軍人を大御所達が演じています。

山本五十六のまとめ

山本五十六

(1940年頃の山本五十六 出典:Wikipedia)

 

今回は山本五十六の生涯について解説しました。山本は早くから航空機の実用性や有用性に着目するなど、優れた観察眼を持つ人物でした。アメリカに勝てないと分かっていながら真珠湾攻撃を立案し、そして戦死を遂げるという壮絶な最期を迎えています。まさに日本の為に命を捧げた人物と言えるでしょう。

山本については書ききれない程に様々なエピソードがあり、今回はその一部だけを解説しました。今回の記事を通じて山本の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

工藤美代子 山本五十六の生涯

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