
新渡戸稲造は5千円札の肖像画になった人として有名ですが、具体的に何をした人か問われると分からない人も多いのではないでしょうか。今回は新渡戸稲造の生涯、名言、逸話について紹介していきます。
目次
新渡戸稲造とは?
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(新渡戸稲造 1933年頃撮影 出典 Wikipedia)
新渡戸稲造は農学者、思想家、教育者等、国際連盟の事務次長等、様々な肩書きを持つ人物です。「武士道」を著し、世界に武士の精神を広め、日米友好の架け橋としての役目を果たしました。
出身地
陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)の生まれです。
生没年月日
生年月日は1862年9月1日です。日本では生麦事件が起き、アメリカでは南北戦争が起きた年ですね。
没年月日は1933年10月15日です。日本が国際連盟を脱退した年です。アメリカでは大恐慌に備え、ニューディール政策か行われています。
職業
様々な肩書きを持っています。
札幌農学校教授 東京帝国大学教授 東京女子大学初代学長 第一高等学校の等の教育者としての一面
国際連盟書記局事務局次長 太平洋問題調査会理事理事長としての国際人としての一面
また貴族院議員として政界でも活躍しています。
新渡戸稲造の生涯と人生年表
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(内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代 出典 Wikipedia)
年表
1862年 誕生
1877年 札幌農学校入学
1884年 アメリカに私費留学
1891年 札幌農学校教授となる
1900年 武士道がベストセラーとなる
1901年 台湾総督府の技師となる
1906年 第一高等学校校長となる
1920年 国際連盟事務次官に任命される
1926年 事務次官退任
1933年 日本が国際連盟を脱退。カナダのヴィクトリアで客死
享年 71歳
幼少期の稲造
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(盛岡城跡 出典 Wikipedia)
稲造は南部藩士新渡戸十次郎の三男として生まれます。新渡戸氏は文武両道にわたる指導にあたった他、新田開発にも貢献した一族でした。家には西洋のものが多くあり、幼き日の稲造は西洋に憧れを抱いたそうです。
14歳の頃に東京英語学校(東大の前身)に入学。その後、15歳の時にクラーク博士が校長を務めていた(入学時は退任)札幌農学校に入学。クラーク博士の名言として 「少年よ大志をいだけ」がありますが、本当は「少年よキリストにあって大志をいだけ」です。学校ではキリスト教の影響が強く、倫理の授業で聖書を用いていた影響もあり、稲造もキリスト教に入信。同期には生涯の友人となる内村鑑三がいました。
留学と武士道
農学校卒業後は北海道庁で働いていましたが、帝国大学に入学します。その時の研究レベルの低さに霹靂し、1884年自費でアメリカ留学を行い、その時に後の妻となるメアリーと出会います。
1891年には帰国し、教授として札幌農学校に赴任して多忙な日々を過ごします。体調を崩し、療養しますが、1900年には武士道を発表し、海外でベストセラーとなりました。
要職を歴任する
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(旧台湾総督府庁舎 出典 Wikipedia)
身体を治した後は1901年には台湾総督府の技師に任命。台湾での製糖産業の新興に成功して、台湾を世界5大生産地にしました。
1906年には東京帝国大学法科大学教授と第一高等学校の校長を兼任。その後も東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学科監、東京女子大学学長等、教育者の第一人者となりました。
国際連盟事務次官として
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(国際連盟本部が置かれたパレ・デ・ナシオン 出典 Wikipedia)
1920年国際連盟が発足した際、武士道のベストセラーであり世界的に有名な事から事務次官に任命されます。この時稲造は
・北欧で起きたオーランド紛争の解決
・著作権問題等を審査する知的協力委員会を発足
→この委員会は後のユネスコに繋がります。
等の功績を残します。後1926年に事務次官を退任しています。その後も貴族院議員や、平洋問題調査会の理事長等の要職に就きます。
晩年
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(柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団 出典 Wikipedia)
1931年に満州事変が勃発。日本への非難が高まり、日米間の仲はどんどん悪くなりました。稲造は日米の架け橋となるべく奮闘。その最中、軍部の批判をした事で、軍部やマスコミから激しい非難を浴びました。同年に反日感情を抑える為、アメリカに渡りますが、こちらでも「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」と、良い返事は貰えませんでした。
翌年の1933年には日本は国際連盟を脱退します。体調が優れない中、平和への最後の望みをつなぎ、カナダで行われた第五回太平洋会議に出席し、演説を行います。その1ヶ月後に倒れ、カナダのヴィクトリアで生涯を閉じました。最期まで人の為、平和の為に生きたのです。
新渡戸稲造の人物エピソード
稲造とキリスト教
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(1880年頃の札幌農学校の校舎 出典 Wikipedia)
稲造は穏やかなイメージがあるでしょうが、キリスト教に入信する前はかなり荒っぽい性格でした。学費を滞納している事を咎められ、掲示板に張り出された時には「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と怒って破り捨てています。入信後は人が変わったようになり、校内で喧嘩が起きると「キリストは争ってはならないと言っている」と仲裁に入る等、キリスト教の影響を強く受けています。
ユーモラスな性格
肩書きから堅苦しい人物に思われがちですが、本人はユーモラスに溢れた人物でした。女性にもモテており、逆プロポーズでの結婚でした。
国連事務次官として働いている時、仲間内で人気投票が行われた時に、人気投票1位を獲得しています。
稲造の教育思想
当時の日本の教育とは知識の吸収であり、暗記等で様々な事柄を学んでいました。しかし稲造の思想としては、「知識偏重」ではなく、「人格教育」を重視していました。また生徒の自由や、自主性を尊重しています。これらは欧米式の教育であり、日本では時代がついていけない場面もありました。後に第一高等学校の校長を退職しています。稲造の教育方針が浸透していれば、日本の教育現場は今とは大きく異なっていたかもしれませんね。
武士道
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(Bushido: The Soul of Japan (1900) 出典 Wikipedia)
稲造は留学中に、「宗教教育がない日本はどのようにして子孫に道徳を教えるのか?」とベルギーの法学者から問われます。欧米の学校では、聖書の物語を通じて子どもたちに道徳や倫理を教えます。
稲造は「日本では宗教の代わりに、武士道が道徳心や倫理観を育む」という結論に達し、それをまとめた本が「武士道」なのです。この本は海外の人に日本人の事をもっと知って欲しいと思い、執筆したものなので、英語で書かれています。また著書で書かれている武士道自体は、稲造の目線からみた思想であり、実際の武士道とはかけ離れている部分もあります。武士自体も北面の武士や、戦国時代等、古い自体ではなく、江戸時代の武士についての記載となっています。
この本は17カ国に翻訳され、ベストセラーになります。アメリカの大統領 セオドワ・ルーズベルトも愛読していました。1904年に日露戦争が勃発し、戦争終結の仲介役を買って出たのが、ルーズベルトでした。稲造は日本とアメリカの架け橋となったのです。
新渡戸稲造の逸話と伝説
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(5千円札 出典 Wikipedia)
お札に選ばれた理由
新渡戸稲造の5千円札は1984年から2007年まで発行されています。1984年の段階で大蔵省は女性をお札に起用するつもりでした。主に文化人からという事で、清少納言、紫式部、樋口一葉、与謝野晶子が候補でした。
清少納言 紫式部→写真がない(お札は精巧に作る必要があり、絵ではダメ)
与謝野晶子→孫が当時現役の政治家(政治色が強いのはダメ)
樋口一葉→短命(この時期はまだ不吉というイメージがあった)
という事で候補者は選考から漏れてしまいます。稲造は女子教育にも力を入れていたので選ばれる事になりました。
紙幣の価値
新渡戸稲造のお札自体はそこまで古くありません。実際に使用した人も多いでしょう。通常の流通した紙幣の価値はそのまま5000円です。
ピン札の場合は実勢価格(業者が販売し実際に市場で取引された値段)は6000円から8000円程度での買取。購入時は額面+100円〜1000円程度になるそうです。
珍しい記番号の場合は価値が更に上がります。NR777777MやCP777777T等のゾロ目は買取価格は6万円以上。購入するには8万円程になります。もっと時代が進めば、更に価値が上がるかもしれませんね。
遺産探しの伝説
皆さんの中には、若き日の稲造が土方歳三の遺産や遺品を探したという話を聞いた人はいますか?これは典厩 五郎(てんきゅう ごろう)による小説 「土方歳三の遺産」の内容であり、完全なるフィクションです。
この作品では新選組隊士の斎藤一や永倉新八の元を訪ねて協力を得る等、かなりの脚色がなされています。小説自体も1993年の作品なので、手軽に読むのは難しいかもしれません。興味がある人は探してみましょう。
新渡戸稲造の名言
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(稲造が留学したジョンズ・ホプキンズ大学の校章 出典 Wikipedia)
私は太平洋の架け橋になりたい
東京大学英文科に入学した際の面接の時や、私費留学に行く時に発せられた言葉です。稲造は日本で生まれますが、キリスト教に入信し、日米それぞれの良い所を知っていました。彼はこの言葉の通り、生涯を日米の架け橋となるべく奮闘しました。
大学に入って何の職業に就いて、何ほどの月給をもらうかなどということは、そもそも末のことで、もっと大きなところへ到達しなければならない。
大学の教育となつて来ると単純なる良民といふことだけでなく、良民のリーダースを造るのである。
当時は大学に進学する人はとても少なく、それは大きな意味のある事でした。大学に通うのは良い給料をもらうのではなく、日本を担うリーダーを作る為。これが稲造の思う教育でした。
信実と誠実となくしては、
礼儀は茶番であり芝居である。
稲造は様々な場所で様々な人と出会います。彼の周りには常に協力者がいました。それは彼に信実と誠実があったからでしょう。
新渡戸稲造にゆかりの地
墓
東京の多磨霊園にあり、隣には夫人の墓もあります。墓地沿いの角地には稲造の銅像が建っています。こちらの銅像、戦時中に軍に没収されましまが、戦後に無事にみつかり、元の場所に帰ってきました。昭和20年に複座式が開かれます。平和の使者だった稲造の銅像が武器にならなかったのは、何かの縁でしょうか。
花巻新渡戸記念館
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(岩手県花巻市 出典 Wikipedia)
花巻新渡戸記念館では新渡戸家の功績とゆかりの品々、さらには新渡戸稲造の世界等を紹介する記念館です。生涯展では、業績や活躍の足跡を年代順に紹介しています。
新渡戸稲造の妻や、子供、子孫について
メアリー
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(妻 メアリー・エルキントン 出典 Wikipedia)
稲造がアメリカ留学中だった1886年、キリスト教の集会の場で出会います。二人は互いの教養や人の良さに惹かれ、稲造がヨーロッパに留学した後も文通を通じて交際を続けていました。
1891年に結婚しますが、当時では珍しい国際結婚であり、両家(特にメアリー側)が反対する中、半ば強引な結婚でした。
メアリーは稲造が札幌農学校で忙しい時も、病気で療養中も献身的に支えたようです。自身も貧しい少年たちのための学校である遠友夜学校を設立し校長に就任。他には日本人道会を設立し、動物愛護団体の先駆けとなりました。また稲造の友人内村鑑三の著作英訳の確認をする等、周囲への協力も惜しみませんでした。
稲造の死後5年が経った1938年に81歳で亡くなります。
遠益(とおます)
メアリーと結婚した翌年の1892年に産まれます。札幌農学校で多忙な日々を過ごしていた時期ですね。由来は友人のトーマスエジソンから来ています。稲造は本当に顔が広いですね。
しかし遠益は生後1週間程で亡くなってしまいます。2人の悲観は大きく、20年後に書かれた修養の中で、「子を失った悲しみは暫く口に出すことも苦痛だったが、最近やっとそれほどでもなくなった」と語られています。
後に夫人の実家で引き取って育てた孤児の女性が亡くなり、遺産1000ドルが残されました。2人はそのお金を資金に、遠友夜学校を1894年に設立します。
この学校は貧しくて通えない子ども達の為、授業料は無料。教師は札幌農学校の生徒が受け持ちました。この学校は遠益への想いもあったでしょう。
稲造が亡くなった後もこの学校は運営されますが、戦争が激しくなった1944年に閉校となっています。
子孫
夫婦は遠益が亡くなった後、姉の息子の孝夫と、姉の孫のことを養子に迎えています。
彰敏
孝夫とことの長男です。
戦後に語学を活かして活躍します。国際貿易観光協会会長秘書や英米テレビ映画翻訳・ベストセラーズ商会専務等の役職を兼任。稲造のように日米間での関わりを主にした仕事に就いています。後に武蔵大学人文学部教授に就任しています。
加藤武子
孝夫とことの長女です。名前の由来は武士道から来ています。加藤英倫と結婚し、苗字は加藤になっています。翻訳家、著述業として活躍します。著書にマイグランパ 新渡戸稲造 -ただ一人の生き証人の孫が語る- があります。
2人の間には幸子という娘がいるようですね。
稲造の直系の子孫はいなくても、稲造の意志は受け継がれているようです。
新渡戸稲造を題材にした作品
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(拓殖大学 恩賜記念講堂 出典 Wikipedia)
小説
1985年発行と古いですが、背広を着た侍-小説 新渡戸稲造があります。事務次官としての背広と、武士道としての侍と、2つの面を持ち合わせている新渡戸稲造の生涯がわかる小説です。
映画・ドキュメンタリー
今のところ稲造を主人公にした作品はないようです。武士道は世界中で読まれており、いつか題材にした作品が出るかもしれません。映画やドラマではありませんが、稲造をテーマにしたドキュメンタリーとして、学問と情熱 第11巻 新渡戸稲造がDVD化されています。
他にも2015年には拓殖大学卒業の城戸裕次が台湾を訪ね、稲造と台湾の深いつながりを探る番組が放送されています。タイトルは 新渡戸稲造の台湾 スーツを着たサムライ2015 です。
書籍
『まんがで人生が変わる!武士道ーー世界を魅了する日本人魂の秘密』 作者 新渡戸稲造 イラスト カネダ工房こちらは武士道を分かりやすく漫画で書いています。
新渡戸稲造ものがたり―真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける 作者 柴崎由紀
新渡戸稲造は自身が多くの書籍を出しており、他の人がまとめた伝記は実は少ないです。こちらは稲造の生涯を分かりやすく書いており、幅広い世代で読む事が出来ます。
逆境を越えてゆく者へ 著者 新渡戸稲造 作者 実業之日本社
新渡戸稲造名著『修養』『自警』を分かりやすく再編集したものです。当時の文体は難しい言葉であり、伝わりにくい部分もありますが、読みやすくなっています。令和の時代になっても稲造の主張、教えは色褪せる事はありません。
参考文献
新渡戸稲造ものがたり―真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける 柴崎由紀
修養 新渡戸稲造














