「三本の矢」の教えや、厳島の決戦でも有名な毛利元就。
元就は、少ない兵でも知略をつくして勝利をたぐりよせた知将だったといわれています。
いったい、どんな生涯だったのでしょうか。
家紋や名言、偉業なども詳しく解説します。
目次
毛利元就とは?
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就
毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将です。
大内義隆(おおうち よしたか)を殺した陶晴賢(すえ はるたか)を、厳島(いつくしま)で破りました。
さらに、宿敵・尼子氏をを滅ぼし、西国10か国をおさめる太守となりました。
毛利元就の生い立ちと生涯
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就
生まれ
名前:毛利元就(もうり もとなり)
幼名:松寿丸(しょうじゅまる)
出身地:安芸国(広島県)吉田荘の郡山城(こおりやまじょう)
生誕:1497年3月14日
死没:1571年6月14日
家族
父:吉田郡山城主・毛利弘元
母:福原広俊(ひろとし)の娘
兄:興元(おきもと)
姉:宮姫(のちの武田某室)
家紋
毛利家の家紋:一文字三星紋(いちもんじにみつぼしもん)
孤独な少年時代
元就は、兄・興元が郡山城主を継いだため、4歳で父に連れられて猿懸城に移り住みました。
しかし、まもなく父母ともあいついで亡くなり、元就はわずか10歳でひとりぼっちになってしまったのです。
さらに、かれの後見人である井上元盛(もともり)は横暴な人で、元就は15歳の頃城から追い出されてしまいます。
元就はその後、亡き父の後妻・杉の大方のもとで育てられました。
郡山城主となる
元就が27歳になったとき、かれの身の上に突然、大きな変化がおとずれます。
郡山城を継いだ幸松丸(兄・興元の長男)が、わずか9歳で亡くなったのです。
そのため1523年8月、元就は、重臣に迎えられて郡山城主に入り、毛利の本家を継ぐことになりました。
それからまもなく、元就の異母弟・元綱(もとつな)が、尼子氏の支援のもと謀反を企みます。
これを知った元就は、ただちに元綱を攻め滅ぼしました。
計略家元就
この頃、元就のいた吉田荘は、山陰の尼子氏と山陽の大内氏という二大国にはさまれ、いつ滅ぼされるか分からない不安な状態にありました。
毛利家はしばらく尼子氏側についていましたが、1537年元就は長男・隆元を人質として大内義隆にさしだし、以後大内氏に従うようになります。
大内氏の力を味方につけた元就は、近隣の土豪をあらゆる手段(武力のほか、縁組・懐柔・離間など)をもちいて平定。
やがて、大敵・尼子氏との戦いをむかえることになりました。
1540年9月、尼子晴久の3万の大軍が、元就の郡山城を取り囲みました。
元就は、領民を城の中へ避難させて籠城。
尼子氏に偽の情報をおくり、攻め込みやすい青光井山に布陣させるという計略をはかります。
そして翌年1月、大内氏と連合して尼子軍を討ち破りました。
「毛利の両川」体制を築く
大内氏は、尼子氏をたおすため、出雲遠征にふみきりました。
この遠征で、元就は大内軍の先鋒として活躍します。
しかし、尼子氏に寝返る豪族があいついだため、撤退を余儀なくされました。
これらの戦いによって、尼子・大内という二大勢力は、おたがいにその力が弱まります。
元就にとって、これは有利な展開となりました。
自身の勢力を強めるため、元就は策を練ります。
それは、山陰の国境の強敵・吉川氏に、次男・元春(もとはる)を養子としてさしだすこと。
そらに、瀬戸内沿岸の豪族・小早川家には、三男・隆景(たかかげ)を養子としてだすことにも成功。
これらは「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれ、その作戦の巧妙さ、元就の欲の深さに周囲はみなおどろいた、といわれます。
厳島の戦い
1551年、元就はすでに55歳。
大内家の家臣・陶晴賢が主君・義隆を自害に追い込み、大内家の実権をにぎります。
この謀反を、元就が見逃すはずはありませんね。
元就は、陶軍を厳島におびきだし、村上水軍によって船団を壊滅させ、退路をたちます。
そのうえで、毛利軍・小早川軍が奇襲をかけ、陶軍をほろぼしたのです。
これが世にいう、厳島の戦いです。
宿敵・尼子氏に勝利する
残るは、大内義長(よしなが)と尼子氏。
1557年、元就は義長を討ち、大内氏をほろぼします。
1563年、宿敵・尼子氏を攻めますが、遠征中に長男・隆元が急死します。
隆元の弔い合戦となったこの戦いは、兵糧攻めによってついに元就の勝利が決まりました。
その後、毛利氏の勢力は中国地方から九州におよび、西国に覇権をとなえるまでになります。
元就は一代にして10か国の太守となったのです。
毛利元就の人生年表
1497年 3月14日、毛利弘元(ひろもと)の次男として誕生。
1500年 兄・興元(おきもと)、家督を相続。
父とともに猿懸城(さるがけじょう)に移り住む。
1501年 母・福原氏が亡くなる。
1506年 父・弘元が亡くなる。
1511年 元服して少輔次郎元就と称する。
1515年 兄・興元に長男・幸松丸(こうまつまる)が誕生。
1516年 兄・興元が病死する。
興元の子・幸松丸が2歳で後継ぎとなり、元就が支える。
1517年 武田元繁との戦い(初陣)で、これを破る(有田・中井出の戦い)。
この頃、吉川国経の娘をめとる。
1523年 長男・隆元(たかもと)が生まれる。
8月10日、幸松丸の死去にともない、元就が毛利家の家督を継ぐ。
1524年 異母弟・元綱(もとつな)の謀反を知り、元綱を討つ。
家中統一に成功する。
1528年 尼子氏を見限り、大内氏に従う。
1530年 次男・元春(もとはる)が生まれる。
1533年 三男・隆景(たかかげ)が生まれる。
1540年 尼子氏の大軍に郡山城を囲まれる。以後、激戦が続く。
1541年 大内氏と連合して尼子軍を撤退させる。
1542年 大内氏に従い、出雲に出陣する(先鋒として活躍)。
1543年 尼子氏に寝返る豪族があいつぎ、大内軍は撤退をよぎなくされる。
1544年 三男・隆景を小早川家に養子にだす。
1545年 妻(正室)が亡くなる。
1546年 長男・隆元に家督をゆずる。
1547年 次男・元春を吉川家に養子にだす(「毛利の両川」体制)。
1549年 発病する。
1551年 大内家の家臣・陶晴賢(すえ はるたか)が主君を裏切り、大内家の実権をにぎる。
1555年 厳島で陶軍を滅ぼす(厳島の戦い)。
1557年 大内氏を攻め滅ぼし、周防と長門(ともに山口県)を勢力下に加える。
3人の息子たちに、毛利家の団結を呼びかける(三本の矢の教え)。
1563年 宿敵・尼子氏を攻めるが、遠征中に長男・隆元が急死。
1566年 尼子義久を破り勝利する。陣中にて病気が再発するが2ヶ月後に全快。
1567年 末子・秀包(ひでかね)が生まれる(母は乃美の方)。
1570年 孫・輝元とともに出雲に出陣。尼子勝久を討つ(布部山の戦い)。
1571年 吉田郡山城で病死する(75歳)。
毛利元就の性格と人物像エピソード
元就の少年時代は孤独でみじめなものでした。
父の死後まもなく、後見役の井上元盛に所領の多治比三百貫を横領され、城からも追い出されるという、ひどい目に遭っています。
のちに元就は、この頃のことを思い出して、三男・隆景に、
「わたしは、これまで40年もの間まるで井上氏の家来のように服従し、これを耐え忍んできた。その悔しさをわかってもらえるだろう」
と語っているのです。
このような幼い頃からの苦労と忍耐の日々が、元就のその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
三矢の教訓
小さな領主からのし上がり大大名となった毛利元就。
そのためか、元就は「互いに団結し、対等の立場で協力し合えば大きなことができる」という考えをもち、絆を大事にする大名でした。
3人の息子に三本の矢をおくった、という話は有名ですね。
・有名な三本の矢の話
「一本の矢ではたやすく折れるが、三本が束になるとなかなか折れぬ。
お前たちもこの矢のように毛利の繁栄のため、この先も三人で力を合わせるのだぞ」
しかし、この話はのちに創られたものといわれています。
これとは別に、毛利家には全文14ヶ条からなる元就自筆の教訓状が残されています。
有名な三本の矢の話は、この教訓状に書かれている「三矢の教訓」のことを指しているのです。
・三矢の教訓の大まかな内容
「毛利家が永続し、吉川・小早川の両家が栄えるためには、三人はもちろん、三家がたがいに協力することが大切である」
「隆元は弟二人をたよりにし、弟二人は本家を大事にするように」
毛利元就の偉業や逸話
育ての親、杉の大方
幼少期、孤立無援だった元就に救いの手をさしのべたのが、多治比の土居屋敷にいた亡父の側室・杉の大方でした。
杉の大方は、実の母のごとく元就を慈しみ育てたのです。
元就が15歳のとき無事元服をすませられたのも、この杉の大方殿の尽力があったからだといわれています。
念仏十遍
元就は、11歳のとき、杉の大方にともなわれて井上光兼(みつかね)邸におもむき、客僧の念仏会に参会して、仏の慈悲の思想に触れています。
その頃から元就は、朝日に向かって十回の念仏を唱え、以後、生涯を通じて一度もこれを行わない日はなかった、といわれています。
人材不足
一代で10か国の太守となった元就の悩みは、人材不足であったといわれています。
とくに、国人領主層の経営能力のある者が少なく、適任者が見つかりません。
そのため、獲得した領地で経済的重要度の高い地域は、元就の直臣を派遣していました。
毛利元就の死因と最期
1570年、元就は腹部に異常な痛みを感じ、以来病床にふすこととなります。
かれの病は、食道がんであったとされています。
それでも、一時は快方に向かうかに見えました。
これは、がん特有の症状です。
1571年3月、やや健康を回復した元就でしたが、4月に再度吐血。
5月には病状が悪化し、昏睡状態が続きました。
そして、6月14日午前8時、郡山城内で75年の生涯を閉じました。
毛利元就の妻や子孫
妻・妙玖(みょうきゅう)
元就の正室・妙玖は、安芸山県郡新庄小倉山城主吉川国経の娘。
妙玖という名は法名であり、実際の名は不明です。
1517年頃に元就に嫁いだと思われ、隆元、元春、隆景ほか女一名の三男一女をもうけました。
元就のよき内助者であり、一族団結の要であったと伝えられています。
元就は、妙玖を大切にし愛妻家であったことも有名です。
孫・輝元(てるもと)
隆元の長男で元就の孫・毛利輝元は、関ヶ原の戦いで西軍の総大将をつとめています。
毛利元就の名言
「ほんとうの友は一人もいない」
毛利元就は、よく酒をのんでは、こうつぶやいていたそうです。
戦国の世、知力や武力にすぐれた者は、必ず天下というトップをねらう時代です。
すぐれた資質を持つ者どうしは、必ずライバル関係にならざるを得ない。
元就は、トップを目指すものとして、孤独をも受け入れなければならない事実を実感していたのです。
毛利元就のゆかりの地
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就
かれは、郡山城主となって以来、一貫してここをすべての拠点とし、さらには人生の最期もここで迎えました。
元就の生誕と永眠の地である広島県高田郡吉田町には、その郡山城跡を中心に多くの史跡が点在しています。
墓
元就のお墓は、吉田町歴史民俗資料館の右わきの坂を上っていったところにあります。
墓標のかたわらには、元就が郡山城を拡張するときに人柱に代えて埋めさせた「百万一心碑」が立っています。
元就の、城を守るうえでの基本精神を象徴するものです。
城・城跡
郡山城本丸跡は、元就の墓所から山道を上ったところにあります。
毛利氏256年間の居城で、全山を城郭化した山城として全国的にも規模が大きいものとなっています。
木がうっそうと生い茂り眺望はよくありませんが、遊歩道が整備され、鎧姿の元就の銅像をみることができます。
神社・寺院
郡山の南麓には、スサノオノミコトを祀る由緒ある神社が存在。
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の伝説の地として有名です。
元就も厚く帰依した、とされています。
毛利元就を題材にした作品
・「毛利元就」なるほど百話_NHK大河ドラマの人物像がよくわかる(廣済堂出版)
平成9年初版本で少し古いですが、逸話や毛利元就関連人物について詳しく書いてあります。
・毛利元就 (NHK大河ドラマ)
毛利元就生誕500周年記念作品として製作された、NHK第36作目の大河ドラマです。
1997年1月5日~12月14日に放送されました。
参考文献
- 『図説学習 日本の歴史6 ものがたり人物事典』(旺文社)
- 『ビジュアル・ガイド 毛利元就』(PHP研究所)