森鴎外は明治から大正にかけて活躍した小説家です。『高瀬舟』や『舞姫』という作品名は聞いた事があるかもしれません。森鴎外は小説家としてだけでなく、翻訳家や軍医としても活躍する等、非常にマルチな才能を持つ人物でした。
学校で必ず習う森鴎外ですが、その人物像や生涯、そして作品名については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。今回は森鴎外の生涯や作品、人物像について詳しく解説していきます。
なお、森鴎外の本名は森林太郎(もり りんたろう)ですが、ここではペンネームである森鴎外で統一して解説します。
目次
森鴎外とは?
氏名 | 森 林太郎(もり りんたろう) |
---|---|
通称・あだ名 | 森鴎外 |
出生日 | 文久2年(1862年)1月19日 |
出生地 | 石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田) |
死没日 | 1922年7月9日 |
死没地(亡くなった場所) | 東京府(現・東京都) |
血液型 | 不明 |
職業 | 小説家・評論家・翻訳家・陸軍軍医 |
身長 | 162cm |
体重 | 51kg |
配偶者 | 先妻:登志子 後妻:志げ |
座右の銘 | 人の光を借りて我が光を増さんと欲する勿れ。 |
森鴎外の人生年表・生涯
森鴎外の人生年表
1862年 | 森鴎外誕生 |
---|---|
1872年 | 父と上京 |
1877年 | 東京大学医学部の一期生となる |
1881年 | 橘井堂医院に転居後に明治政府に仕え、陸軍軍医副の任務に就く |
1884年 | 衛生学研究目的で、ドイツ留学を命じられる |
1888年 | 陸軍大学校教官に就任 |
1889年 | 本格的な文筆活動を開始 |
1890年 | 舞姫を発表 |
1894年 | 日清戦争が勃発 |
1899年 | 軍医監(少将相当)に昇任 |
1904年 | 日露戦争が勃発 |
1912年 | 戯曲『ファウスト』の訳を完結させる |
1916年 | 陸軍省医務局長を退き予備役に編入 |
1922年 | 死去(享年60歳) |
森鴎外の生涯①
森鴎外は文久2年(1862年)1月19日に石見国鹿足郡津和野町田村で、津和野藩の典医・静泰の嫡男として生まれます。幼少期から聡明だった森鴎外は、『論語』『孟子』等の漢学書やオランダ語を学び、9歳で15歳程の学力があったとされます。
やがて日本が明治維新を迎えて明治政府が発足すると、1872年に父と上京します。1873年11月に、第一大学区医学校・東京医学校の予科に入学。当時の森鴎外は12歳でしたが、14歳と年齢を偽って入学しました。学生時代の森鴎外はドイツ人教官の授業を受ける傍ら、漢詩や漢文に強い興味を持っています。
やがて1881年7月に森鴎外は本科を卒業するものの、医者を志すつもりはなく、物書きになる事を夢見ていました。優秀な頭脳を持ちつつも、父の病院を手伝うばかりの森鴎外を見かねた同級生が、森鴎外を陸軍軍医に推薦し、12月に陸軍軍医副に勤務しています。
1884年6月に森鴎外は衛生学を学ぶ為に、ドイツ留学を命じられました。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリン、オーストリア=ハンガリー帝国首都ウイーン等を転々とし、1888年9月に森鴎外は帰国。この留学で森鴎外は衛生学だけでなく、文学的な素養も培っています。帰国後に森鴎外は本格的に文筆活動を開始しました。
森鴎外の生涯②
1889年1月3日に森鴎外は、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表。更に同日の『読売新聞』に弟の三木竹二と、カルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」を共訳して随時発表し、その戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰でした。このように森鴎外の文筆活動は、外国の翻訳が最初だったのです。やがて森鴎外は代表作品となる舞姫を1891年1月に書き上げています。
森鴎外の生涯③
その後も文筆活動を続ける森鴎外ですが、1894年には日清戦争に従軍。戦争後には日本が割譲した台湾勤務を命じられてもいます。やがて森鴎外は1895年10月に帰国し、1896年には岸田露伴らと共に『卍』を創刊。1902年頃には戯曲などにも活動の幅を広げました。
1904年2月に日露戦争が勃発すると、第2軍軍医部長として出征。1907年10月には陸軍軍医総監となり、人事権を持つ軍医のトップとして陸軍省医務局長になったのです。その後も文壇家としての意欲は衰える事はなく、1910年には慶應義塾大学の文学科顧問に就任。世間が大逆事件などで政治問題に敏感になる中でも、政治色の強い作品も生み出し続けたのです。
1916年4月には陸軍省医務局長を退き、予備役に編入となります。1918年12月に帝室博物館総長兼図書頭、1918年9月に、帝国美術院初代院長に就任する等、予備役後には今までとは趣の異なる分野にも携わったのです。
森鴎外は実にマルチな分野で功績を残した人物と言えるでしょう。
森鴎外の死因と最期の言葉
森鴎外の死因は腎萎縮と肺結核です。1921年に森鴎外は臨時国語調査会長に就任するものの、10月頃から朝に浮腫が出来るなど、腎臓の機能低下の症状が見られ始めています。
1922年6月には正式に萎縮腎と診断され、肺結核の兆候も見られました。己の死期を悟った森鴎外は、7月6日に親友で医者や歌人である賀古鶴所に遺言の代筆を頼んでいます。
この遺書には「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という文章が綴られています。これは森鴎外が名誉や勲章などを望まず、「森林太郎」という1人の人間として生涯を終えたいという思いが込められていました。
この遺書は森鴎外の最期の言葉といっても差し支えはなく、遺書の代筆を終えた7月6日夜から体調は悪化。7月9日に親族や賀古鶴所に見守られるようにしてこの世をさります。享年60歳でした。
遺言通り墓には一才の名誉や称号は残される事はなく、称号を排し「森林太郎ノ墓」とのみ刻されています。
森鴎外とはどんな作家?
森鴎外を作品は非常に幅が広く、作家像を形容するのは非常に難しい事です。翻訳家としては「即興詩人」などでイタリアの雅な文化や風土を世に伝え、イタリア各地を周る文学青年を数多く生み出しました。文学作品だけでなく、ハルトマンの『審美学綱領』を翻訳し、美意識のあり方なども日本に伝えました。
小説家としては浪漫派の代表作品と言える『舞姫』、青春小説である『雁』や『青年』、乃木希典の殉死に影響を受けた『高瀬舟』などの歴史小説。様々なジャンルの作品を生み出しました。一連の作品に共通するのは、その文章の巧みさにあります。漢詩や漢文に造指が深く、ドイツ語にも優れた森鴎外だからこそ、拡張高い文章を綴る事が出来たのです。
日本やアジア、そして西洋の知識や風土をよく理解していた森鴎外は、この時代における非常に特異な作家だったと言えるでしょう。
森鴎外の代表作品
森鴎外は小説、戯曲、そして評伝と様々な作品を世に送り出しています。森鴎外の作品名を聞いた事があれど、その内容については知らない人も多いかもしれません。ここでは森鴎外の代表的な作品について簡単に解説していきます。
舞姫
森鴎外が1890年に『国民之友』に発表した作品です。ドイツに留学した留学生が留学先で知り合ったドイツ人女性との恋愛経験を語る内容になっており、森鴎外の初期の代表作となりました。
森鴎外は自身もドイツに衛生学を学ぶ為に留学しており、そこでドイツ人女性と恋愛関係に至ったとされます。森鴎外が日本に帰国後に「とあるドイツ人女性」が日本に来日しており、それが誰であったのかは今でも議論されています。ドイツ人女性と日本人が恋に落ちるという内容は、当時としては斬新であり、大きな話題になりました。
雁
森鴎外が1915年に刊行した短編小説です。不運に命を落とす雁と、恋愛感情で揺れ動く女性の儚い心理描写をなぞらえた内容となっています。「恋愛感情を持たれている男性の友人」という第三者的な視点で物語は進んでおり、女性と男性が知り得ないような情報も物語では描かれています。
高瀬舟
森鴎外が1916年に発表した短編小説です。弟を殺した喜助は遠島に送られる為、高瀬舟に乗りました。舟頭の羽田庄兵衛は喜助がなぜか晴れやかな顔をしている事に疑問を持ち、なぜ彼が弟を殺したのかを問うのです。安楽死というテーマを取り入れたこの作品は、現在に生きる私達だからこそ読むべき作品かもしれません。
森鴎外の性格と人物像エピソード
己の意志を貫く性格
森鴎外は天才的な頭脳を持つ故に、己の主張を貫く性格でした。医学、文学双方で頭角を現したものの、双方の分野で論争を引き起こしています。森鴎外は文学面で理想や理念を貫く「理想主義」を掲げていました。
一方で事物や現象を客観的に描く写実主義的を唱えた坪内逍遥と衝突しています。医学の分野では近代の西洋医学を重要視し、和漢方医と激論を交わしました。秀才ゆえに討論好きな森鴎外でしたが、いずれの論文も先進国から拝借したものともされます。天才な森鴎外ではあったものの、それを自分のものに昇華するのは難しかったようです。
潔癖症な性格だった
森鴎外は細菌学や衛生学を学んだ経緯から、極端な潔癖症になったとされます。果物などは加熱しないと食べられなくなり、風呂は細菌の温床と見做し、入浴はほとんど行わずにタライで身を清める程度に留めていました。
そんな潔癖症な森鴎外だったので、日露戦争や日清戦争に従軍した際も、入浴に水をあまり使わずに済んでいます。潔癖症の感覚が当時と現在では異なるというのも不思議な感じがしますね。
森鴎外の逸話と凄さ
日本で一番若い医者
森鴎外は幼少期から聡明で知られ、第一大学区医学校・東京医学校の予科に年齢を2歳多く偽って入学しています。当時の新入生は71名いて、一番若かったのが森鴎外でした。森鴎外は結果的に留年する事なくストレートで卒業を果たしている為、満18歳(数え年19歳)で医者の資格を得た事になります。
現在では医師になるには6年制の大学に入る必要がある為、どれだけストレートで卒業を果たしても24歳で医者になるのがやっとです。そう考えると森鴎外の医者になった時の年齢の若さが際立つのではないでしょうか。
脚気で多くの犠牲者を出す
己の意志を貫く森鴎外ですが、その意志の固さが災いした事があります。それが陸軍における脚気の問題です。当時はビタミンという概念が浸透していない時代であり、軍事衛生上の大きな問題が脚気でした。当時の陸軍の主食は白米でしたが、これは麦飯に比べるとビタミンの値が少なく、これが脚気の原因になっていたのです。
当時の医学では原因が判明していなかったものの、麦飯を食べる事で脚気が改善する事が経験的に判明しており、日本海軍は兵食改革で白米ではなく麦飯を導入しています。しかし森鴎外はドイツ医学的に、麦飯と脚気改善には科学的根拠がないと判断し、麦飯を禁止する通達を軍に出した事もありました。
日本陸軍における脚気問題はその後も尾をひき、日露戦争では約25万人の脚気の患者が発生し、2万7千人との犠牲者が生まれています。科学的な裏付けは不明でも、麦飯を食べれば脚気が治るという事を森鴎外が認めていれば、犠牲者はもう少し少なかった事は間違いありません。この点は森鴎外の意思の硬さが災いになったと言えるでしょう。
森鴎外の名言
己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人もそれを理解してくれなくたって、己はそれに安じなくてはならない。
森鴎外はこの時代屈指の秀才であり、論争好きな性格から、度々周囲と意見がぶつかる事もありました。意見が合わない時でも森鴎外は落ち込んだり、悩む事はなく、自分自身の信じた道を進んだのです。
この森鴎外の言葉は、彼の性格を端的に表すと共に、意見の衝突に悩む人へのエールと言える名言でしょう。
人に言うべき事は、最後まできちんと言うがよい。
全部は言いたくないことだったら、むしろ初めから黙っていよ。
これはあくまで私生活においての話ですが、友人や家族に何かを言わなくてはならない時に、中途半端に物事を伝えると、かえって相手を混乱させる事もあります。自分の伝えたい事は相手にしっかりと伝える事が大事ですし、全てを言いたくない時は、あえて言わない方が良い事もあるのです。
森鴎外の家系図・子孫
森鴎外の家系図
森家は前述した通り、代々津和野藩の典医を務めた家系でした。森家は女子が生まれる事が多く、祖父も父も婿養子でした。祖父・白仙は森鴎外が生まれる前年に病死していた為、森鴎外は祖父の生まれ変わりだと喜ばれたのです。
森鴎外の妻
森鴎外には先妻である登志子と、後妻である志げの2人の妻がいました。登志子とは1889年に結婚したものの、性格の不一致により1年半で離婚。登志子も再婚するものの、結核にかかり1900年に死去しました。
続いて森鴎外が妻にしたのは、大審院判事荒木博臣の娘である志げでした。彼女は文才に優れた女性であり、小説「波瀾」を著した他、義妹の小金井喜美子と雑誌『青鞜』の賛助員にもなっています。
森鴎外の子孫
森鴎外は登志子との間に長男・於菟(おと)、志げとの間に長女・茉莉(まり)、次女・杏奴(あんぬ)、次男・不律(ふりつ)、三男・類(るい)を儲けました。不律は夭折したものの、成長した子供たちは各分野で活躍しました。皆変わった名前ですが、これは森鴎外が子供達が海外でも通用する名前にしたいと考えた為です。
森鴎外の息子としては長男・於菟が有名です。彼は医学者となり、台北帝国大学医学部教授などを歴任。息子に医学博士になった長男の森真章(もり まくす)や、東北大学教授を務めた次男の森富(もり とむ)などがいます。森鴎外の曽孫としてはエッセイストの森美奈子、千葉大学医学部教授の森千里などがいます。
茉莉や杏奴、そして類も多くの子供に恵まれており、森鴎外の子孫はここでは書き表せない程に多く、各分野で功績を残しました。森鴎外の血筋や才能は現在にも引き継がれているのです。
森鴎外のゆかりの地
文京区立森鷗外記念館
森鴎外記念館は、森鷗外の旧居跡地に建てられた記念館です。場所は森鴎外が晩年に暮らした場所のすぐ近くで、鷗外の遺品資料約3000点、三男・類の旧蔵資料を約6000点、貴重書を含む図書資料約11000点が所蔵されています。
「文字との出会いだけでなく、文学と人と街とが広く交流する場」を目的としており、ショップやカフェ、庭園などもあり、見どころは満載です。森鴎外について学びたい人は是非とも訪れたい場所ですね。
住所:東京都文京区千駄木1-23-4
森鷗外旧宅・森鷗外記念館
こちらは文京区にある記念館と違い、森鴎外が幼少期に過ごした旧宅に隣接して建てられた記念館です。鴎外旧宅も展示物の一部として取り入れられており、記念館では森鴎外の映像や遺品などが展示されています。
住所:島根県津和野町町田イ238
森鴎外の関連人物
夏目漱石
夏目漱石は「こころ」や「坊ちゃん」などの作品を生み出した文豪です。両者が初めて出会ったのは1896年1月3日の事で、正岡子規の句会に参加した時でした。当時の森鴎外は舞姫などの作品で既に知られた存在であるものの、夏目漱石が処女作である『吾輩は猫である』を発表するのはそれから9年後。夏目漱石は全くの無名な存在でした。
両者はその後も3〜4回程交流していた事が知られており、両者は互いの事を意識していた様子があります。夏目漱石は森鴎外に先立ち1916年に亡くなるものの、森鴎外は夏目漱石の葬儀に参列しています。
夏目漱石は1903年に千駄木にある借家に家族と住むものの、実はこの家は森鴎外が1890年に1年半程暮らしていた家でした。夏目漱石はその事を知らずに暮らしていたようです。この家は現在では明治村に移転しています。
乃木希典
乃木希典は明治後期に活躍した陸軍軍人であり、日露戦争の旅順攻略権を指揮した人物です。乃木希典は1888年から1889年にかけて、陸軍の近代化を目的としたドイツ留学を命じられており、この時に同じくドイツ留学中の森鴎外と親交を深めています。
やがて明治天皇が崩御した時に、乃木希典は静子夫人と殉死しました。乃木希典の殉死は批判や称賛など多くの意見があり、多くの議論を読んだのです。森鴎外は乃木希典の殉死を好意的に捉えており、乃木希典の殉死を元に『興津弥五右衛門の遺書』という作品を発表します。
その後も森鴎外は歴史小説『阿部一族』と『佐橋甚五郎』を立て続けに発表し、3作品をまとめた歴史小説集『意地』を1913年6月に出版しました。乃木希典の殉死は森鴎外が歴史小説を執筆する契機となり、日本の文学界にも大きな影響を与えたのです。
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軍医として、文豪として名声を欲しいままにしていたと思われがちな森鴎外ですが、実は山あり谷ありな生涯を送っています。本書は向島や千住など、森鴎外が暮らした東京各地を丹念にめぐり、森鴎外の実像に迫った一冊となっています。偉人と呼ばれた人達も実はそれぞれに苦労があった事が分かると、作品に対する印象も変わるのではないでしょうか。
超訳 鴎外の知恵
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まとめ
今回は森鴎外の生涯について解説しました。森鴎外は軍医と文豪という異なる分野で頭角を現すなど、この時代屈指の多才な人物です。森鴎外の作品はドイツへの羨望や乃木希典の殉死など、彼の心情や当時の世相をよく反映していました。
ここで解説した以外にも様々は名作を森鴎外は残しており、それは後世の文学にも多大なる影響を与えています。この記事をきっかけとして、森鴎外の作品に触れる契機になれば幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/森鷗外