楠木正成は鎌倉後期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。鎌倉幕府の崩壊に大きな影響を与え、南北朝の動乱が起きた際には後醍醐天皇の陣営につきますが、湊川の戦いで足利尊氏に敗れて自害します。
楠木正成は最期まで後醍醐天皇に従い、そして殉じた立場から、戦前の日本では「忠臣」として高い評価を得続けてきました。更に近年の研究では、官僚や商人としても才能を発揮していた事が判明しています。今回は楠木正成の生涯や性格、悪党と呼ばれる理由などを解説します。
目次
楠木正成のプロフィール
楠木正成の出生は詳しくは判明していません。後醍醐天皇が1333年に鎌倉幕府を滅ぼした際に、楠木正成は後醍醐天皇の陣営について功績を残します。やがて後醍醐天皇が建武の新政を開始すると、楠木正成は記録所寄人として活躍しました。
後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際も、楠木正成は後醍醐天皇の陣営として足利尊氏と対立。足利尊氏を追い詰めた事もありましたが、1336年の湊川の戦いで敗北して自害しました。楠木正成は対立した足利尊氏からも称賛されるなど、武将としても人間的にも高い評価を受けています。
氏名 | 楠木正成 |
---|---|
通称・あだ名 | 忠臣、三徳兼備、多聞天王の化生 |
出生日 | 生没年不明も永仁2年(1294年)説あり |
出生地 | 諸説あり |
死没日 | 延元元年/建武3年(1336年)5月25日 |
死没地(亡くなった場所) | 摂津国湊川 |
血液型 | 不明 |
職業 | 武士 |
身長 | 不明 |
体重 | 不明 |
配偶者 | 不明 |
座右の銘 | 足ることを知って、及ばぬことを思うな |
楠木正成の人生年表・生涯
楠木正成の生涯は謎が多く、史実に忠実な資料と軍記物語である「太平記」とはいくらの隔たりがあります。そのため、こちらの年表では太平記以外の記述を元に作成しています。
楠木正成の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
時期不明 | 楠木正成誕生 |
元亨2年(1322年) | 北条高時の命令で渡辺右衛門尉達を討つ |
永弘元年/元徳3年(1331年)8月 | 後醍醐天皇による元弘の乱が勃発し、楠木正成も参加する |
同年10月 | 後醍醐天皇が隠岐に流され、楠木正成は撤退する |
元弘2年/元徳4年(1332年) 12月 | 楠木正成が挙兵し、下赤坂城を攻略 |
元弘3年/正慶2年(1333年)2月 | 千早城の戦いが勃発し、後醍醐天皇が隠岐を脱出 |
同月5月 | 鎌倉幕府が崩壊し、翌月から後醍醐天皇が建武の新政を開始 |
同年8月 | 楠木正成は河内・摂津の国司になり、次々と要職を歴任 |
建武2年(1335年)11月 | 延元の乱により後醍醐天皇と足利尊氏が対立。 |
建武3年(1336年)1月 | 後醍醐天皇敗走し、楠木正成は東坂本に撤退 |
建武3年(1336年)5月 | 湊川の戦いで楠木正成戦死 |
謎に包まれた出生
楠木正成の出生や幼少期の様子は詳しくわかりません。河内の土豪説や、駿河国出身説、悪党的な荘官武士出身説などがあり、現在も議論が続いています。楠木正成の名前が明確に資料に登場するのは元亨2年(1322年)です。楠木正成は得宗・北条高時の命令で、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺氏を襲撃しました。
この時の任務は没収地の差押さえと敗北されており、楠木正成は得宗領となった阿弖河荘を与えられています。当時の楠木正成は、鎌倉幕府の番犬として畿内一帯に睨みをきかせる存在に過ぎませんでした。その一方で、楠木正成は朝廷とも関係を深めています。時期は不明ですが、楠木正成は後醍醐天皇主宰宋学研究会に入り、後醍醐天皇から信任を得ていました。
後醍醐天皇の挙兵
後醍醐天皇は以前から鎌倉幕府に対する討幕運動を展開しますが、元徳3年(1331年)4月に計画は鎌倉幕府に漏洩します。後醍醐天皇は笠置山に逃げて挙兵。これは元弘の乱と呼ばれ、楠木正成は河内国金剛山で挙兵しました。
幕府は大軍を差し向けており、9月に後醍醐天皇は笠置山の戦いで敗北。吉野でも護良親王が敗北しており、残る反幕府勢力は千早城で戦う楠木正成陣営のみとなりました。楠木正成は約90日にわたり抵抗を続け、10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、戦死したようにみせかけて行方をくらませます。
鎌倉幕府は楠木正成が戦死したと思い、11月に帰還。しかし鎌倉幕府が楠木正成という一介の武将にてこずった事は、反幕府派の面々に討幕の機運を高めさせました。
元弘2年/元徳4年(1332年)3月に後醍醐天皇は隠岐島に流罪となりますが、楠木正成は虎視眈々と「その時」を待ちます。
同年12月{太平記では4月)に、楠木正成も湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃しました。楠木正成は赤坂城を奪還するとまたたく間に和泉・河内を制圧し、一大勢力を作り上げます。楠木正成は元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、赤坂城や千早城で幕府軍と対峙。ゲリラ戦法や落石攻撃を続け、幕府の大軍に一歩も引かずに奮戦を続けます。この時の戦いは千早城の戦いと呼ばれます。
1月に播磨の赤松円心が苔縄城で挙兵し、後醍醐天皇は同年閏2月に隠岐から脱出。5月7日に反幕派の足利高氏達は京都六波羅政庁に総攻撃を仕掛けました。5月9日に京にある六波羅探題は滅亡し、同月に千早城の戦いは楠木正成の勝利で終結。5月22日に鎌倉で東勝寺合戦が行われ、新田義貞の手で鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇が決起した時、楠木正成は早い段階から挙兵しており、鎌倉幕府に抵抗を続けました。この行動は足利高氏や赤松円心、新田義貞を反幕勢力に引き込む事に大きな影響を与えています。
建武の新政の不満
鎌倉幕府が崩壊すると後醍醐天皇は上洛し、6月5日から「建武の新政」という新たな政治を主導しました。楠木正成は8月に河内・摂津の国司となり、建武元年{1334年)2月に2月 従五位下に昇叙。検非違使の官位も安堵されました。楠木正成は後醍醐天皇からの信任も厚く、多くの所領を与えられており、結城親光、名和長年、千種忠顕と併せて、「三木一草」と併称と呼ばれるに至ります。
ただ建武の新政は、多くの武士達にとって納得のいくものではありませんでした。建武元年(1334年)冬、楠木正成は北条家の残党を討伐する為、京を離れます。だがこの頃には後醍醐天皇の護良親王と足利尊氏(高氏)の対立は激しくなり、護良親王は捕縛されて足利尊氏に身柄を引き渡されました。楠木正成は建武の親政の役職の多くを辞職し、反抗の意思を見せています。
やがて建武2年(1335年)8月2日、足利尊氏は北条時行の反乱を鎮圧する為、京を出陣。反乱は8月30日に鎮圧しますが、足利尊氏は後醍醐天皇から離反し、11月19日に尊良親王・新田義貞は足利尊氏討伐の為に出陣。楠木正成は近畿に待機しました。しかし新田義貞は敗走し、足利尊氏は上洛を果たしました。
建武3年(1336年)1月28日、楠木正成は新田義貞達と京に攻撃を仕掛け、足利尊氏軍を撃退。2月11日の豊島河原の戦いで足利尊氏を九州まで撤退させる事に成功します。2月29日に年号は延元に改元されますが、足利尊氏はそれを認めずに建武の年号を使い続けます。後醍醐天皇と足利尊氏の対立は激しさを増していきました。
絶望的な戦いを強いられる
4月には足利尊氏が再度挙兵し、京に向けて進軍を開始。足利尊氏は九州から京に向かう途中に軍勢を増やす中、敗走する新田義貞軍は減らす等、徐々に劣勢となります。5月13日に新田義貞が神戸に到着した頃、足利尊氏軍は10万騎、新田義貞軍は2万騎を切り、後醍醐天皇陣営の敗北は明らかでした。
絶望的な状況下、5月16日に楠木正成は新田義貞の陣営に入り、足利尊氏と戦う事を命じられます。楠木正成は足利尊氏との戦争の勝敗は、建武の新政による人々の不満によるものと考えていました。そのため、後醍醐天皇が民衆から支持を得られていない状態で戦いを挑んでも、必敗すると考えていたのです。実際、5月18日には、新田義貞が足利尊氏に敗北して赤松城から撤退しています。
5月24日、楠木正成は新田義貞と合流。太平記によると、その日の夜に楠木正成と新田義貞は酒を酌み交わし、それぞれの胸中を話し合ったとされます。新田義貞は足利尊氏に連敗した事を恥じており、「勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と話しています。
楠木正成は周囲の悪評や恥に固執し、無謀な戦いを挑もうとする新田義貞に失望したとされますが、既に後には引けぬ状態。楠木正成は自らの死期を悟ったのです。
楠木正成の死因と最期
楠木正成は、新田義貞との会談の翌日に起きた5月25日に勃発した「湊川の戦い」で戦死しました。太平記によると足利尊氏軍50万騎、新田義貞・楠木正成軍は5万騎とされますが、推定では足利尊氏軍は3万5000騎、新田義貞・楠木正成軍は1万7500騎とされます。いずれにせよ、楠木正成が劣勢を強いられた事は間違いないようです。
25日の辰刻(午前8時頃)、足利尊氏軍は海から現れ、湊川を挟んで両軍は対峙。陸路からも足利尊氏の弟・足利直義が陸上軍主力の大軍を連れて進軍しつつありました。新田軍は各場所に布陣し、楠木正成は700余騎で湊川西の宿に陣を構えています。戦いは足利尊氏の奇襲で新田義貞達は劣勢となり、楠木正成達は分断されました。
楠木正成は弟の楠木正季らと足利直義の軍勢に突撃。僅かな軍勢ながら、直義の近くまで届くまで善戦します。足利直義はからくも逃走に成功。楠木正成は新たな手勢に攻撃を仕掛け、その戦いは6時間に及びました。ついに73騎になった時、楠木正成と楠木正季は刺し違えて自害。楠木正成の年齢は生年は不明ですが、永仁2年(1294年)という説があり、この説が事実なら享年は43です。
南北朝時代の幕開け
楠木正成自害後、足利尊氏と足利直義は合流し、新田義貞軍の攻撃に向かいました。新田義貞は、多くの優秀な武将を失いつつも逃走に成功。しかし湊川の戦いは足利尊氏が勝利します。やがて後醍醐天皇は10月10日に花山院に幽閉され、足利尊氏は11月7日、建武式目を定めて新たな幕府の創設を始めました。
しかし後醍醐天皇は花山院を脱出し、吉野に逃走。この少し前の8月15日に、豊仁親王が光厳天皇として三種の神器を、後醍醐天皇さら得る形で即位しています。しかし後醍醐天皇は「その三種の神器は偽物で、本物の神器は南朝に持ってきたもの」と主張。
後醍醐天皇は吉野に独自の朝廷(南朝)を作り、足利尊氏が擁立する朝廷(北朝)と、二つの朝廷が存在する事態が発生します。これ以降、日本は60年にわたり、南北朝時代が到来するのです。
楠木正成は何した人?悪党と呼ばれる理由は?
鎌倉幕府の崩壊や、後醍醐天皇の忠臣として活躍した楠木正成。結局のところ、彼は何をした人なのでしょうか。また楠木正成を「悪党」と呼ぶ事もありますが、その理由が気になる人もいるかもしれません。この項目では楠木正成が歴史に与えた影響や、悪党と呼ばれる理由を解説します。
「日本開闢以来の名将」
楠木正成は鎌倉幕府の倒幕に大きな影響を与え、建武の新政崩壊後は後醍醐天皇側の有力武将として頼りにされます。楠木正成はゲリラ戦法を得意とし、少ない軍勢で多くの戦いで勝利を収めており、この戦法は「楠木流の軍学」として後世に大きな影響を与えました。応仁の乱の頃から「楠木正成著と称する偽書の軍学書」が出回っており、早い段階から楠木正成の軍略家としての評価が高かった事が伺えます。
室町時代に著された軍記物語「太平記」で、楠木正成は三徳兼備の和朝最大の武将と称されました。三徳とは智・仁・勇の3つを指し、儒学最高の理想とされます。更に「古今これほど偉大な死に様をした者はいない」とも称しており、その最期もまた高く評価されています。
後醍醐天皇第一の忠臣
後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕や、隠岐島や花山院に幽閉されても脱出を成功させる等、かなり積極的な人物でした。その一方で足利尊氏をはじめ、多くの敵を作っています。そんな中でも、楠木正成は後醍醐天皇の忠臣としての立場を貫きました。
やがて日本は明治維新を迎え、天皇を中心とした立憲主義国家の道を歩み始めます。南北朝正閏論で南朝が正式なものに決まると、楠木正成は「大楠公」と呼ばれ、修身の教科者にも採用されました。
戦後には「悪党」と呼ばれる
やがて戦後になると、忠臣としての楠木正成像は改められ、新たに「悪党」としての側面がクローズアップされました。室町時代の悪党は「強大な経済力と武力を背景に、幕府などの旧来の体制に反発する者」を指します。
その前まで公家や有力武将は、家柄や血縁関係で強固な地盤を形成していました。しかし楠木正成は、両親が何者かも判明していない新興勢力であり、いわば「悪党」という存在です。彼は「摂津から伊勢」に続く交通の要所に影響力を持ち、鉱山業者や物資輸送業者とも関係を築いています。これは当時としては画期的かつ前駆的な存在でした。
摂津から伊勢に続く道は鎌倉幕府にとって、幕府と京の六波羅探題を結ぶ要所です。しかし楠木正成はこのラインを、悪党として分断させる事で、幕府の援軍を阻止させる事で元弘の乱に戦略的勝利を収めました。彼は権威にひるむ事なく、知恵と新しい発想を持った、時代の革命児だったのです。
結局、楠木正成とは何者なのか
戦前まで楠木正成は後醍醐天皇の忠臣という面がクローズアップしていました。しかし研究が進むにつれ、楠木正成は戦略家、交通・流通路の支配者、建武の新政時の実務官僚などのさまざまな面を持つ人物である事が判明しています。
楠木正成が存命で後醍醐天皇も彼の重用の仕方を間違えなければ、足利尊氏も追い詰められていた可能性があり、歴史は大きく変わっていたのかもしれませんね。
楠木正成が最強と呼ばれた伝説について
楠木正成は「三徳兼備の和朝最大の武将」と称されていますが、実際のところどのような方法で勝利を収めたのでしょうか。この項目では楠木正成が最強と呼ばれた伝説の数々を解説します。
赤坂城の戦い
楠木正成の名前が天下に轟いたのは、元弘元年(1331年)9月11日に起きた赤坂城の戦いです。この戦いは、楠木正成が護良親王を擁し、鎌倉幕府の正規軍全4軍と1ヶ月にわたる籠城戦。鎌倉幕府は1日でこの戦いを終わらせる筈でしたが、楠木正成は猛攻に耐え抜きます。
敵が接近すれば弓矢で応戦し、敵が堀に手を掛ければ偽りの塀を切って落とす。敵が盾を用意すれば、兵に熱湯をかけて追い払う。太平記では幕府側の兵士は約20~30万、更には100万という記載もあるものの、これらは誇張も含まれている事は否めません。しかし史実でも幕府軍が4つの正規軍を投入した事は間違いなく、楠木正成は10月21日夜に城に火を放ち、自害したフリをします。
結果的に幕府方は、楠木正成の殺害と護良親王の捕獲に失敗。たった1人の武将に翻弄される姿は、鎌倉幕府の弱体化を世に知らしめる結果になりました。
千早城の戦い
各地を潜伏していた楠木正成ですが、後に姿を現して赤坂城を奪還します。やがて元弘3年/正慶2年(1333年)2月には、千早城の戦いが勃発しました。楠木正成は赤坂城の詰めの城とし、千早城をその背後の山上に築き、鎌倉幕府の襲撃に備えました。
この時に楠木正成は、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計、わら人形によるダミー作戦などの奇抜な作戦を断行。幕府軍が千早城へ釘付けになった結果、後醍醐天皇は隠岐島を脱出する事に成功します。太平記は幕府軍を計200万としていますが、実際は2万5千人程とされます。とはいえ、これだけの大軍による攻撃を楠木正成が耐えた事は事実。楠木正成の名は、またしても日本中に轟いたのです。
楠木正成の性格
相手に敬意を払う高潔さ
楠木正成は天皇に忠誠を誓うだけでなく、敵将であっても自分が認めた人物なら敬意を払う人物でした。それは足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、足利尊氏が京に向かい進軍した時の事。足利尊氏に多くの武将が随行する様子を見て、楠木正成は新田義貞よりも足利尊氏に徳があると考えていました。
楠木正成は「新田義貞を誅伐し、その首を手土産に足利尊氏と和睦すべき」と提案しますが、それらの意見は後醍醐天皇や公家に一蹴されます。楠木正成は新田義貞では足利尊氏に勝つ事はできないと考えており、それは後の湊川の戦いで現実のものとなりました。
また元弘の乱で菊池武時という武将が戦死した後、論功行賞が行われた事がありました。皆が自らの功績を主張する中、楠木正成は菊池武時の功績を強く推薦します。後醍醐天皇は楠木正成が相手に敬意を払う姿勢に感銘を受け、正成の主張を聞き入れています。
足利尊氏に菊池武時。敵味方問わず、自らが認めた相手には敬意を払う。これらのエピソードからは、楠木正成の高潔な性格が見えてきます。
皇居に楠木正成の銅像がある理由は?
皇居外苑の一角には楠木正成の銅像が建てられており、連日多くの人たちが訪れる観光スポットとなっています。なぜ、この地に楠木正成の銅像があるのか、疑問に思う人も多いでしょう。この項目では皇居に楠木正成の銅像がある理由を解説します。
きっかけは住友財閥の記念事業
楠木正成の銅像の建立を主導したのは、住友財閥でした。住友財閥は明治23年(1890年)に別子銅山開坑200周年の式典が計画されており、明治22年(1889年)末、当時の初代総理事・広瀬宰平が住友家13代当主住友友忠と相談して、楠木正成の銅像を建てる事が決まります。銅像は様々な工程を経て、明治33年(1900年)に銅像は完成しました。
ちなみに楠木正成像の彫刻の献納は、東京美術学校が依頼されています。その理由として、日本の美術工芸の技術や価値が、日本政府が主導する欧化政策で下火になっているという状況がありました。
天皇を中心とする立憲君主国である日本にとって、天皇の忠臣たる楠木正成は敬うべき存在。その為、住友財閥は日本固有の美術の保護・育成に務める東京美術学校に、楠木正成の銅像の献納を依頼したのでした。
楠木正成像は日本の美術工芸技術が注ぎ込まれたものになっており、現在に至るまで高い評価を受け続けています。皇居外苑を訪れた時は、ぜひ楠木正成像を見て欲しいものですね。
楠木正成の名言
足ることを知って、及ばぬことを思うな
現代語訳は「足りない部分に目を向けるのではなく、足りている部分に目を向けなさい」という意味です。楠木正成は悪党であり、当時の有力武将や公家が持つ血縁関係による地盤を持っていませんでした。しかし楠木正成には優れた戦略家としての才能と、新興勢力による軍事力を保持していました。
この「足りている部分」を活かし、楠木正成は数々の戦に勝利します。この名言は楠木正成の人物像を体現する名言でしょう。
罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん
楠木正成の時世の句です。現代語訳は「罪業の深い救われない考えだが私もそう思う。それでは同じように生まれ変わって、このかねてからの願いを果たそう」というものです。
これは楠木正成の弟で、湊川の戦いで共に自害した楠木正季の辞世の句に対する返答になります。楠木正季は、「七回生まれ変わっても、朝敵を滅ぼして国のために報いたいと思う」と述べており、楠木正成はその言葉に同意。このやり取りから、「七生報国」という言葉が誕生しました。
多くの武士が寝返る中、楠木正成は死しても後醍醐天皇に忠誠を誓うと約束しており、彼の忠誠心の高さが伺えます。
楠木正成の子孫
忠臣や軍略家など、様々な顔を持つ楠木正成。彼の子孫は今も健在なのか気になる人もいるかもしれません。この項目では楠木正成の子どもや、子孫のその後について解説します。
楠木正成の子ども
楠木正成の妻が何者かは分かっていません(南江久子という人物という説あり)が、少なくとも正行、正時、正儀の3人がいた事は確定しています。楠木正成自害後も南朝と北朝の争いは続き、正行と正時は正平3年/貞和4年{1348年)の四條綴の戦いで戦死しています。2人に子はおらず、この時点で2人の血筋は途絶えています。
三男の楠木正儀の生誕は1330年代初頭とされており、四條畷の戦いでは生き延びる事ができました。彼は楠木氏棟梁と南朝総大将の地位を引き継ぎつつ、時には北朝に帰順し、時には南北統一を目指して行動するなど、激動の時代を巧みに生き抜きました。彼の最期は諸説ありますが、元中6年(1389年)に逝去、もしくは元中8年(1391年)に赤坂で戦死したと伝えられます。
楠木正成の子孫
結論からいえば、楠木正成の嫡流の子孫は途絶えていますが、傍流の血筋が今も続いています。
楠木家の歴代当主は、室町時代や戦国時代を生き抜きます。しかし、8代目当主・楠木正盛は天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康陣営について敗北し、豊臣秀吉の命令で首を刎ねられました。一説では正盛には弟がいたとされますが、彼の家系も断絶しています。
現在、楠木正成の子孫とされるのは楠木正虎という人物。彼は楠木正儀の孫の楠木正秀(三男)の子・大饗正盛の子孫とされています。楠木正虎は朝廷に楠木正成の朝敵の赦免を願い出ており、永禄2年(1559年)にそれは認められました。
楠木正虎の子孫を通じ、楠木正成の血筋は全国に広まっていきます。戦国時代〜江戸時代に宇喜多秀家の家臣であり、後に徳川家康に仕えた楢村玄正は楠木正虎の子孫を称しました。彼の長男・孫兵衛之正の系統は断絶しますが、次男の伊左衛門正隆の系統は岡山藩の藩士として、江戸時代も存続します。
まあ江戸時代前期に、由井正雪による慶安の変が勃発しますが、彼の妻は楠木正虎の孫娘とされました。このようにして、楠木正成の子孫は、楠木正虎を通じて全国に広まっていきます。
1935年には、楠木正成の子孫を称する者たちが集まる「楠木同族会」という会合が結成されます。100人ほどが集い、初代会長にはアラビア石油創業者の山下太郎氏が就任。現在も楠木同族会は存続しており、近年では元衆議院議長綿貫民輔氏が快調を務めていました。
このようにして、楠木正成の子孫は今も繁栄しているのです。
楠木正成にまつわる都市伝説・武勇伝
楠木正成と能の関係性
実は楠木正成の一族は「能」と深い関係があると噂されています。皆さんは能楽を大成させた「観阿弥」はご存知でしょうか。彼は足利義満に寵愛された事でも有名ですが、その身分やルーツは長らく謎に包まれていました。
戦後になり観阿弥の祖父が、忍者の一族として有名な服部氏である事、母親が楠木正成の父親の娘、つまり楠木正成の姉妹である事が判明しました。つまり楠木正成は能楽や忍者の一族と近い関係にあったのです。
でもなぜ戦後になりこの関係性が判明したのでしょうか。足利義満は能楽に強い関心を抱いていましたが、その一方で南朝の有力者である楠木家とは対立していました。その為、観阿弥は楠木正成との関係性を秘密にしていたと思われます。
彼は「芸能の系譜を表わした系図」、「本当の血統を示した系図」を使い分け、巧みに足利義満と接近したのです。この家系図が本物と断定された訳ではありませんが、歴史のロマンを感じさせる話ですね。
楠木正成は怨霊になった?
太平記で神格化された楠木正成ですが、一方で仏教的には「七生滅賊」の罪業を願った悪人という側面もあります。その為、太平記の流布本巻23「大森彦七が事」には、楠木正成が怨霊として登場。この時の楠木正成は朝敵滅賊の野望を果たす為、三毒の魔剣を探し求めています。
太平記は全40巻からなり、22巻は既に欠落しています。後半になるにつれ、楠木正成だけでなく後醍醐天皇や護良親王、更には新田義貞などの怨霊も登場する等、雰囲気が大きく変わる内容です。その為、楠木正成が本当に怨霊になったのかは判断の分かれる部分です。ただ太平記を読めば、楠木正成の新たな一面が見えてくるかもしれませんね。
楠木正成のゆかりの地
湊川神社
湊川神社は楠木正成を祀る神社です。この地に供養塔が建てられたのは寛永20年(1643年)。尼崎藩主の青山幸利が湊川の戦いで戦死した楠木正成の、戦死の地を比定した事に由来します。また元禄5年(1692年)には徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓碑を建立しました。
幕末に尊王攘夷思想が広がると、後醍醐天皇の忠臣たる楠木正成を敬う人は増加。やがて日本が明治維新を迎えると、明治天皇は楠木正成の忠義を後世に伝える為、湊川神社の建立を命じ、明治5年{1872年)に創建が完了しました。境内には宝物殿や能楽堂である神能殿、結婚式場などもあり、多くの参拝者が訪れています。
住所:兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1-1
楠公誕生地石碑
楠木正成の生年や幼少期の様子は謎に包まれていますが、生誕地として有力視されているのが大阪府千早赤阪村です。道の駅「ちはやあかさか」の敷地内には、楠公誕生地石碑や千早赤阪村立郷土資料館。楠公産湯の井戸など、楠木正成ゆかりの場所が多々あります。
出典:大阪府南河内郡千早赤阪村 二河原辺7
楠木正成の関連人物
後醍醐天皇
後醍醐天皇は、第96代天皇および南朝初代天皇です。彼は鎌倉幕府の倒幕に心血を注ぎ、後に建武の新政を主導しますが、多くの武士達から顰蹙を買いました。やはりというべきか、太平記で後醍醐天皇は暗君として描かれています。
ただこれは歴史的な評価とは別に、「後醍醐天皇が三種の神器を持つ正統な君主だった為、楠木正成は愚直に仕えざるを得なかった」という判官贔屓の側面もあります。この「後醍醐天皇=暗君、楠木正成=正義」という構図は、戦前戦後を通じて多くの国民の中に浸透しました。
しかし近年では、後醍醐天皇を再評価する流れもできつつあります。建武の新政は国内に大きな混乱を与えましたが、その政策や法制度の中には、室町幕府に組み込まれたものもありました。楠木正成を評価する為、あえて悪者と書かれている後醍醐天皇も、新たな評価が定まりつつあるのかもしれません。
水戸光圀
水戸光圀は水戸藩の2代目藩主です。彼は勤王精神が厚く、『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎を作りました。水戸光圀は儒学に基づく尊皇思想に基づき、室町幕府が擁立した北朝ではなく、南朝を皇統の正統とする史論に辿り着きます。その考えは南朝側の武将を顕彰する事に繋がり、後醍醐天皇の一番の忠臣である楠木正成の神格化に影響を与えました。
楠木正成は延宝8年(1680年)春から、南朝正統論を裏付ける史料を手に入れる為、史臣たちに全国を探索させます。この全国散策こそが、後の水戸黄門というストーリーの土台になっています。楠木正成の墓碑も水戸光圀の主導で建立されました。墓碑が建てられた場所は、楠木正成を尊敬する者達の聖地となり、後の湊川神社の創建の基盤となります。水戸光圀は、楠木正成の存在を世に広めた立役者と言えるでしょう。
楠木正成の関連作品
楠木正成を題材にした作品は過去現在を通してたくさんあります。この項目では楠木正成を題材にした書籍やドラマなどを紹介します。
おすすめ書籍・本・漫画
・楠木正成
楠木正成を主人公にした歴史小説です。この作品では楠木正成を筆頭にした悪党たる新興勢力と、古い地盤を基礎とした武士達の対立が描かれています。皇族との結びつきを深める事で、新たな日本を作ろうとする楠木正成の姿を書き記してきます。
・建武中興と楠木正成の真実
謎に包まれた楠木正成ですが、長年の研究を経て判明した真実も存在します。本書は史実をもとに楠木正成の実像を著した一冊。近現代の思想や、国体にも触れており、興味深い内容になっています。
・逃げ上手の若君
暗殺教室で有名な松井優征が現在連載している漫画です。ほ北条時行を主人公とし、南北朝時代という非常にマイナーな時代を題材にした意欲作。楠木正成は非常に腰の低い人物として描かれていますが、それは仮の姿であり、優れた戦術眼と巧みな状況判断を持つ人物として描かれています。
作中の楠木正成は北条時行の上位互換であり、北条時行が学ぶべき存在です。
おすすめの動画
・【ゆっくり解説】忠臣それとも悪党!?楠木正成の謎!!
https://m.youtube.com/watch?v=X3yJ-5rOMd8&pp=ygUM5qWg5pyo5q2j5oiQ
未だに謎の多い楠木正成の実像。近年の研究をもとに、新たな解釈を加えた解説動画です。
・【建武新政】108 楠木正成の最期 湊川の戦い【日本史】
楠木正成が戦死した湊川の戦い。その経過をわかりやすく解説した動画です。
おすすめのドラマ
・太平記
太平記は1991年に放送された大河ドラマです。主人公は足利尊氏であり、タブーとされた南北朝時代を正面から描いた本作は高い評価を得ています。楠木正成を演じるのは若き武田鉄矢でした。
戦前的な英雄的イメージではなく、田舎者というイメージで登場した為、当初は右翼団体からクレームが絶えませんでしたが、物語が進むにつれ、それらのクレームは収まります。
楠木正成についてのまとめ
今回は楠木正成の生涯について解説しました。彼は日本有数の軍略家であり、天皇の第一の忠臣。更には商人として古い体制に抗うなど、多くの顔を持つ人物です。
彼は戦前の教育や国体に大きな影響を与えるだけでなく、大河ドラマや少年漫画にも起用されるなど、未だに根強い注目を集め続けています。今回の記事で解説した事は楠木正成のごく一部の内容にすぎません。今回の記事を通じ、楠木正成の生涯や人物像に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/楠木正成