徳川綱吉と聞くと生類憐みの令や犬将軍等、あまり良いイメージを持たないのではないでしょうか?
しかし近年では徐々に再評価が進んでおり、新たな綱吉像も生まれつつあります。今回は徳川綱吉の生涯や偉業等について紹介しましょう。
目次
徳川綱吉とは?
徳川綱吉は徳川家5代将軍です。兄の家綱に子が出来なかった為34歳で将軍となり、新たな武家諸法度の制定や官僚制度の推進等で、戦国時代の風土を改める事に成功します。
生類憐みの令を制定し、江戸市民を混乱させる事になったと言われ一般的には後世の評価は低いです。しかし近年では研究が進み、実は有能な将軍だったのでは?と言われています。
生まれ
1646年に徳川家光の4男として江戸城で生まれます。家光は長男の家綱を後継者にすると決めており、綱吉が将軍になる事は本来はなかったと言われています。
性格
綱吉は勉強家で勤皇家な性格でした。
これは家光が幼少期から儒学を叩き込んでいた事が要因です。儒学は父や兄等、目上の人を敬う事を常としており、兄である家綱との争いを避ける目的もありました。結果的に綱吉は将軍となり、儒教が根底にある政治を行います。
能狂と呼ばれる程に能を愛したり、後に紹介する生類憐みの令等、1つの事に極端に執着する性格でもありました。
この性格は人事にも影響します。将軍就任に恩のあった堀田正俊を大老に就任させますが、廃された酒井忠清が死去した際には、病死かを判断する為に墓まで掘り起こしているのです。政敵には厳しかったようですね。
あだ名
綱吉のあだ名は犬公方。これは生類憐みの令が顰蹙を買った事と、戌年で特に犬を愛していたからと言われます。
身長・体重
徳川将軍家の位牌は身長に合わせて作られているという説があります。換算すると綱吉の身長は124cm程で、事実なら体重も30kg台です。当時の成人男性の身長が155〜160cmなのでかなりの小柄です。低身長がコンプレックスで政策に影響したという説もあります。
しかしオランダ使節ケンペルが綱吉に謁見した時は聡明に見えたと記録しており、身長には触れていません。綱吉は人前で能を披露する事が好きであり、低身長がコンプレックスという説とは矛盾しています。
7代家継は8歳で死去しているものの、位牌の比率を換算すると135cmです。これは現在の子どもと比較しても大きいので疑問も残ります。遺骨の状態が悪く確認出来なかったのが悔やまれます。
位牌の大きさを無視するなら、綱吉は当時の成人男性と変わらない身長体重だったと思われます。
徳川綱吉の人生年表
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1646年 | 0歳 | 誕生 |
1651年 | 5歳 | 15万石を拝領する |
1680年 | 34歳 | 5代将軍となる |
1682年 | 36歳 | 勘定吟味役を設置 |
1684年 | 38歳 | 堀田正俊刺殺される |
1685年 | 39歳 | 生類憐みの令(諸説あり) |
1691年 | 45歳 | 湯島聖堂を建立 |
1695年 | 49歳 | 荻原重秀が元禄金・元禄銀を作る |
1701年 | 55歳 | 浅野長矩に切腹を命じる。 |
1703年 | 57歳 | 忠臣蔵が起こる |
1709年 | 64歳 | 死去 |
綱吉誕生
綱吉は1646年に江戸城で誕生。父は3代将軍家光、母は側室の桂昌院です。家光は長男の家綱を将軍にするつもりであり、4男の綱吉に将軍職が回ってくる事は本来ありませんでした。
綱吉は5歳の頃には近江や美濃等合わせて15万石を拝領し、1653年には元服。1661年には館林藩主として25万石の大名となりました。
将軍就任
1680年4代将軍家綱が病に倒れます。家綱に子はおらず、家綱の兄弟の中で存命だったのは綱吉のみであり、綱吉が次期将軍となる事が決まります。
綱吉は家綱時代の大老酒井忠清を罷免して、将軍就任に功績のあった堀田正俊を大老に就任させます。諸藩の政治監査や継承問題の裁定をし直す等、綱吉は家綱時代に失墜していた将軍家の威光回復に努めています。
世襲役人を罷免し、有能な小身旗本の登用を図りました。儒学の影響で勤皇精神もあり、公家の所領等の底上げを図る等、皇室との関係も良好でした。綱吉の治世の前半は天和の治と呼ばれ、高く評価されています。
綱吉の後半生
1684年、大老の堀田正俊が江戸城内で稲葉正休に刺殺されます。綱吉は以降は老中との協調路線を辞め、柳沢吉保等の側用人を重用します。
この頃から母桂昌院に従一位と言う特別な位を授ける等、独裁が目立つようになりました。生類憐みの令を発令し出したのもこの頃です。学問への情熱は揺らぐ事はなく、1691年には後に幕府直轄の学校となる湯島聖堂を建立しました。
1701年には浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつける松の廊下の刃傷事件が発生。綱吉は浅野内匠頭に切腹を命じます。喧嘩両成敗にしなかった事を当時の江戸市民は批判。2年後には赤穂浪士は吉良邸討ち入りを決行。綱吉は彼らに切腹を命じています。所謂忠臣蔵であり、ドラマや歌舞伎でも取り上げられています。
綱吉の死因
綱吉は1709年に麻疹で64歳で死去。当時麻疹は天然痘に並ぶ感染症として恐れられていました。一説では天然痘に伴う気管支炎で餅を詰まらせたとも言われます。
徳川綱吉の人物エピソード
能に熱中していた
歴代将軍は代々能が好きでしたが、綱吉は能狂と呼ばれる程にハマっていました。能を演じて諸大名に披露する事は勿論の事、側近や諸大名にも舞う事を強要しました。
気に入った能楽師は士分に取り立てていますが、断ると追放や改易させる等、処断は過酷を極めています。ただ綱吉はマニアックな能曲も好んでおり、時代に復活した能曲も沢山ありました。特に雨月や蝉丸等、現在でも高く評価されているものもあり、能における綱吉の功績です。
徳川綱吉と犬
綱吉と言えば生類憐みの令から犬将軍、犬公方という言葉をイメージする人が多いでしょう。生類憐みの令は後程詳しく説明しますが、綱吉と犬には様々な繋がりがありました。
犬を沢山飼っていた
皆さんは狆という犬をご存知ですか?鼻ぺちゃ犬で人気のある愛玩犬です。綱吉は狆を可愛がり、江戸城で座敷犬、抱犬として飼われていました。
綱吉は大名に狆を飼わせ、最終的に狆は百匹以上になりました。綱吉は狆を江戸城に連れて行きますが、立派な乗り物に乗せられて登城しています。
犬小屋の設置
生類憐みの令施行後は中野御用御屋敷という犬小屋が作られます。かつては綱吉が犬を愛するあまり、江戸中の野良犬を養育する為に作られたものと解釈されていました。近年では研究が進み、野犬を収容する施設と考えられています。
犬は多産の象徴だった
綱吉の長男の徳松は5歳にして亡くなり、綱吉は後継がいませんでした。安産祈願を戌の日に行うのは、犬は沢山子どもを産む為に縁起が良いからです。綱吉は戌年生まれであり、自分の境遇も相まって、犬に特別な感情を抱いたのかもしれませんね。
徳川綱吉が発令した生類憐れみの令とは
綱吉と言えば生類憐みの令が有名です。
かつては母桂昌院が信頼している僧侶から「後継が出来ないのは前世での殺生の罪が災いしている」と言われた為と考えられていました。近年では僧侶が台頭する前から制定され始めていた事が分かり、否定されつつあります。
かつては行き過ぎた動物愛護政策、天下の悪法とも言われていましたが、近年では再評価が進んでいます。
生類憐みの令の歴史
生類憐みの令は20年の間に百数十回も発令された法令の総称です。
年 | 出来事 |
---|---|
1685年 | 将軍の外出の際に犬や猫を鎖に繋がなくてもよい |
1687年 | 病気の牛馬を捨てることを禁じる ※かつてはこの法令が最初と言われていました。 |
1691年 | 蛇使いや犬や猫の見世物禁止 |
1693年 | 釣りの禁止 |
1694年 | 金魚を飼う時に数を申告する |
1695年 | 中野御用御屋敷の建設 同年に鉄砲で鳥を殺して商売をした与力が切腹 |
1698年 | 犬殺しを密告した者に奨励金 |
1701年 | 鰻屋やドジョウの売買禁止 等 |
確かに後半になるにつれ行き過ぎた法令もあった為、江戸市民からは不満も買っています。犬小屋の餌代も税金であり、現在の金額で70億円と生活を圧迫していました。
生類憐みの令の実態
綱吉が将軍になったのは1680年。関ヶ原の戦いから80年が経っても、戦国時代の気風は強く残っていました。
かつて水戸光圀も1650年頃に友人から浅草の観音様で辻斬りをしようと誘われています。光圀は断るのですが「臆病者」と言われた為に、辻斬りで1人を殺傷しています。また野犬も多く、狂犬病も社会問題でした。
綱吉は命を大切にする事を浸透させる為に、生類憐みの令を作ったと言われています。生類憐みの令には捨て子の禁止や病人の保護、牢獄の環境改善等の福祉政策も含まれています。今では当たり前の考えも、当時の江戸にはなかったものだったのです。綱吉の治世でこれらの福祉政策は浸透したのです。
ちなみに江戸では厳しかった法案も地方ではあまり浸透せず、長崎ではオランダ人が出入りする為に、動物を使った料理が出されていました。水戸光圀は生類憐みの令に反対する意味で豚や牛を食べています。
生類憐みの令のその後
綱吉は100年先も生類憐みの令を残して欲しいと臨終の際に伝えますが、6代将軍家宣は早々に生類憐みの令を廃止。江戸市民は喜んだと言われます。
綱吉と家宣は仲が良くなかったとも言われ、綱吉の政策は尽く廃案となりますが、捨て子の禁止等の生類憐みの令の一部はそのまま残されました。
徳川綱吉が行った偉業や政策
生類憐みの令以外にも様々な偉業を綱吉は残しています。中興の祖と仰がれる吉宗も綱吉の政治を幾つかお手本にしています。
武断政治から文治政治への転換
綱吉は前述した生類憐みの令により、戦国時代の気風を改めて「弱者保護」「仁の心」を浸透させました。
1683年に新たに武家諸法度が発布。内容も武道から忠孝や礼儀を重視した者に変わっています。学問所である湯島聖堂を建立し、学問の普及にも勤めました。
勝手掛老中制度や勘定所の充実
家綱の時代、老中は集団指導体制を採用しています。これは話し合いで物事を決めるものの、責任者がいない事を意味します。綱吉は勝手掛老中制度を創設し、老中首座という責任者を定めました。
更に綱吉は財政活動の中心となる勘定所の整備を進めています。
能力本位の官僚制度
実は綱吉の時代までは幕府は放漫体制で赤字が深刻でした。これは世襲の役人が財政役職についていた事も多く、更に職務怠慢等も横行していたからです。
綱吉は前代まで世襲してきた代官を罷免や改易し、能力のある役人が役職に就任できるよう改革を行いました。
荻原重秀の重用
綱吉は勘定吟味役として荻原重秀を重用。荻原重秀は能力本位の官僚制を推し進めた人物です。佐渡金山の再生や、元禄検地を行なっています。
荻原重秀は「幕府に信用があれば、その通貨に金や銀等を用いる必要はない」と考えていました。今では1万円札自体に金や銀は含まれていませんね?重秀は200年以上先の考え方を先取りしており、徐々に実物紙幣から信用紙幣に移行する為に金銀の含有率を減らした元禄銀、元禄金を作りました。
かつては元禄銀、元禄金は悪性インフレをもたらしたと言われていましたが、近年の研究ではこの時にインフレが起きたのは冷害による米の高騰が原因と判明しています。商人は価値の下落した紙幣を貯蓄から投資に回した為、経済が活性化して元禄文化が花開いたと言われます。
何故綱吉は評価が低いのか?
綱吉の治世は天和の治と言われ、近年は評価が高まっています。しかし後年は生類憐みの令のエスカレートを招いた為、庶民の人気は低かったのは事実です。
荻原重秀の経済政策も後の新井白石に否定されました。重秀は書物を残さなかった為、歴史の陰に埋もれてしまいます。後に黒船が来航した際も、信用紙幣に移行していれば、国内の金が海外に流出しなかったでしょう。
この時代元禄地震、宝永地震、富士山の大噴火等、大規模な災害に見舞われています。国民はこれらの災害を綱吉の政治が悪いと考えたのです。
水戸黄門や忠臣蔵等の時代劇は現在でも人気があります。この時代は綱吉が将軍の頃であり、彼らを主役に添えると綱吉が悪人にならざるを得ないのです。
徳川綱吉の名言
代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せきりにせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である。
綱吉が将軍になる前に代官達に言った言葉です。綱吉は民が為政者を信用しておらず、為政者も民を疑っているという本質を見抜いており、信頼関係を構築する為に為政者は意思疎通を心がける事が大事だと考えていました。
将軍になる前から、為政者の心得を身につけていたのですね。
徳川綱吉にゆかりのある地(寺院・神社・墓等)
館林城址
将軍就任前、綱吉は館林城の城主であり、その跡地です。城の建物の大半は1874年に焼失しましたが、土塁等の一部は残されています。
住所:群馬県館林市城町
護国寺
1681年に綱吉が生母の桂昌院の願いをうけ建てられたお寺です。何度か大火に見舞われるものの、本堂、仁王門、惣門は焼け残りました。
このお寺には大隈重信、山県有朋等の明治にかけて活躍した志士達のお墓があります。
東京都文京区大塚五丁目40番1号
根津神社
日本武尊か1900年程前に創建した由緒正しい神社です。綱吉は後継者に恵まれず、兄の子の家宣が養嗣子となります。根津神社の祭神が家宣の産土神(その人を生まれる生涯守護する神)だった為、家宣の屋敷地に遷座し新たな社殿作りました。
明治になり夏目漱石や森鴎外等の文豪がこの周辺に屋敷を構えた為、旧跡も多く残されています。
東京都文京区根津一丁目28番9号
寛永寺(綱吉の墓所)
徳川将軍家の菩提寺です。1625年に現在の上野公園の敷地に創建。天台宗僧侶の天海の意向で建てられています。
江戸時代は徳川家や諸大名の帰依をうけて、とても栄えていました。 綱吉を含め6人の墓があったものの、1945年の東京大空襲で大部分が焼失します。綱吉の墓は常憲院霊廟と呼ばれており、残った部分は国の重要文化財となりました。
東京都台東区上野桜木一丁目14番11号
徳川綱吉の妻や子ども、子孫について
最後に綱吉の妻や子ども、子孫について紹介しましょう。
綱吉は後継ぎには恵まれませんでしたが、女好き(父親譲りで美少年も)だったと言われています。ここで紹介する以外にも多くの側室がいました。
最も綱吉は後世の評価が低い時期もあった為、創作も多いと言われていますので、鵜呑みにはできない部分もありますね。
鷹司信子(1651〜1709年)
綱吉の正室。鷹司家は藤原氏の血を引く五摂家の1つです。京育ちの信子は綱吉の正室になる為、江戸言葉や武家特有の文化を学んでいます。
2人の間に子は生まれず、綱吉の母親の桂昌院とは仲が悪かったと言われます。綱吉との仲は諸説ありますね。
綱吉の死因として、また綱吉の隠し子である柳沢吉里が後継者になる事を恐れ、信子が無理心中を図ったという説もありました。今では俗説の域を出ませんが、信子の墓には長く黒網がかけられていたのは事実です。
瑞春院(1658〜1738年)
綱吉の側室。元々は伝という名で伝わっています。綱吉が館林藩主だった時に桂昌院の侍女として仕えています。綱吉の子を産んだのは伝だけでした。
身分の低かった桂昌院と伝は信子と対立していたと言う説があります。綱吉死去後は尼となり瑞春院と名乗ります。
寿光院(?〜1741年)
綱吉の側室。側室になったのは綱吉に後継が生まれるよう、大奥に迎え入れられます。その過程には桂昌院の意向がありました。結局は後継は授からず、後に尼となります。
また1708年には姪の竹姫(1705〜1772年)を養女として受け入れます。竹姫は2度の婚約予定があったものの、2人とも婚約前に病没。吉宗の代になり、薩摩藩主島津継豊の元に嫁ぎ、徳川家と島津家の婚姻関係の強化に努めました。
清心院(1667〜1739年)
元々は信子の女房でしたが、大奥の実力者右衛門佐局の意向で綱吉の側室となりました。
鶴姫(1677〜1704年)
綱吉の長女で、母親は綱吉の側室瑞春院。綱吉は鶴姫を溺愛し、庶民が鶴の字や鶴紋を使う事を禁止します。
1685年に紀州藩嫡子の綱教と結婚し、綱教は次期将軍の有力候補になります。しかし鶴姫が1704年に27歳で天然痘で死去し、翌年に綱教も亡くなります。2人の間に子はいませんでした。
徳松(1679〜1683年)
綱吉の長男で、母親は瑞春院です。徳松は綱吉も名乗っていた幼名でした。七五三は徳松の健康を願った事が始まりです。しかし徳松は5歳で死去し、綱吉の直系は途絶えます。
その後の徳川将軍家
綱吉の子どもは早くに亡くなった為、幕府は次の後継者を画策し、綱吉の兄の子である家宣が綱吉の養子になる事が決まります。この時に家宣を強く押したのが水戸光圀です。
1709年に徳川家宣は48歳で6代将軍になるも3年で死去。家宣の子も早くに亡くなっており将軍職を継いだのは3歳の家継でした。その家継も肺炎で8歳で死去し、将軍家の血は途絶えます。
その後に将軍家を継いだのは御三家紀州藩の徳川吉宗でした。将軍家は血筋を変えながら現在まで存続していく事となるのです。
参考文献
仁科邦男「生類憐みの令」の真実
篠田達明 徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書)
天下の悪法「生類憐れみの令」は、実は最先端の福祉政策だった!?