大隈重信は幕末の武士であり、明治維新後に参与や大蔵卿、内閣総理大臣などの要職を務めた人物です。彼は民意を反映させる為、政党政治の重要性を説いた他、早稲田大学を創設した教育面の先駆者でもありました、
2021年の大河ドラマである「青天を衝け」にも登場し、知名度の高い人物ではありますが、その人物像については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。今回は大隈重信の生涯や功績について解説していきます。
目次
大隈重信のプロフィール
大隈重信は1838年に肥前国の武士の家に生まれ、幕末には尊皇攘夷派の志士として活動します。明治維新を経て大隈重信は薩長土肥の一角として参与などの要職を歴任するものの、明治十四年政変で失脚して政府を去りました。
その後は立憲改進党を設立して、自由民権運動を主張。後に外務大臣や第1次大隈内閣を組閣して内閣総理大臣にも就任しています。1907年に憲政本党の総理を辞任してからは文化事業に携わる機会が多かったものの、1914年に元老達の意向で2度目の内閣総理大臣に就任しました。
大隈重信は1922年に85歳で死去しますが、式には約30万人の一般市民が参列。最後まで国民からの支持は高かったのです。
氏名 | 大隈重信(幼名は八太郎) |
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通称・あだ名 | 統計伯 |
出生日 | 天保9年(1838年)2月16日 |
出生地 | 佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江) |
死没日 | 大正11年(1922年)1月10日 |
死没地(亡くなった場所) | 大隈重信邸(現・東京都早稲田) |
血液型 | O型 |
職業 | 武士・官僚・政治家 |
身長 | 180cm |
体重 | 不明 |
配偶者 | 大隈美登・大隈綾子 |
座右の銘 | 過去を忘れよ |
大隈重信の人生年表・生涯
大隈重信の人生年表
天保9年(1838年) | 大隈重信誕生 |
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文久元年(1861年) | 弘道館の教授に就任 |
慶応3年(1867年) | 大政奉還進言のため脱藩する |
慶応4年(1868年) | 裁判所参謀助役等の要職を歴任 |
明治2年(1869年) | 参与となる |
明治6年(1873年) | 明治6年の政変 |
明治14年(1881年) | 明治14年の政変で政府を下野 |
明治15年(1882年) | 立憲改進党を結成 東京専門学校を設立 |
明治21年(1888年) | 黒田清隆内閣の外務大臣に就任 |
明治29年(1896年) | 進歩党を結成 |
明治31年(1898年) | ・隈板内閣発足 ・憲政本党を結成 |
明治40年(1907年) | 憲政本党の総理を辞任 |
大正3年(1914年) | 第二次大隈重信内閣発足 |
大正11年(1922年) | 85歳で死去 |
大隈重信の生涯①
大隈重信は天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)で佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれます。7歳で藩校弘道館に入校して儒学を中心に学問を学ぶものの、後に退学して枝吉神陽から国学を学ぶようになりました。
藩内で頭角を表すようになり、文久元年(1861年)から弘道館の教授になりますが、時は幕末であり、藩内の交渉役として諸藩をめぐる事の方が多かったようです。
文久2年(1862年)から聖公会チャプレンのチャニング・ウィリアムズに、慶応元年(1865年)からオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキに英語を学びます。一連の学びは彼の思想形成に大きな影響を与えました。
慶応3年(1867年)になり薩摩藩長州藩が倒幕を主導した際には、徳川慶喜に大政奉還を行うよう進言する為に脱藩。しかし京都で捕らえられ、大隈重信は1か月の謹慎処分を受けています。
大隈重信の生涯②
やがて徳川幕府が滅んで明治政府が発足すると、大隈重信は長崎に赴任。2月から裁判所参謀助役、3月には徴士参与職、外国事務局判事等の要職に命じられます。
明治2年(1869年)になると明治政府の要職である参与に就任。高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務を担当した他、地租改正、殖産興業政策、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設等の重要案件に対応していきます。大隈重信は政府内では急進派であり、段階的に改革を主導する事を考えていた大久保利通らと対立していくのです。
明治6年(1873年)に発生した明治6年の政変では、留守政府でありながら反征韓論派の立場をとり、政府に残留します。明治11年(1878年)に大久保利通が暗殺され、伊藤博文が政府の中心人物として台頭すると、大隈重信は会計検査院の重要性を説き、後に会計担当参議を務めました。
当初は良好な関係を築いていた大隈重信と伊藤博文ですが、自由民権運動が盛り上がるにつれ両者は徐々に対立します。10年近くの経過で国会開設を目指す伊藤博文に対し、大隈重信は2年後に国会を開設し、イギリス流の政党内閣という案を構想していました。
結果的に大隈重信は明治14年(1881年)の明治14年の政変で失脚し政府を下野。それと同時に「国会開設の詔」も発付され、10年後の国会開設も約束されます。大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設に向けて準備を始めたのでした。
大隈重信の生涯③
明治18年(1885年)に伊藤博文が日本初の内閣を発足し、幕末に欧米列強と締結した不平等条約の改正に着手するものの、徐々に行き詰まりを見せ始めます。明治20年(1887年)に大隈重信は井上馨の後任の外務大臣として内閣に入閣して条約改正に取り組みました。
大隈重信は後任の黒田清隆内閣でも外務大臣を留任するものの、大隈重信が諸外国に打診した、「領事裁判権を撤廃する代わりに、日本在住の外国人の裁判は日本の法官ではなく外国人を任用する」という案が強い批判を受けます。大隈重信も暗殺対象となりました。
結果的に大隈重信は明治22年(1889年)10月に右翼団体に所属する来島恒喜という人物に爆弾で襲撃され、右脚を大腿部から切断する大怪我を負うのです。大隈重信は傷が癒えた12月に外務大臣を辞任し、その後は枢密顧問官に就任しました。
水面下で活動を続けていた大隈重信は明治24年(1891年)に立憲改進党に再入党し、代議総会の会長に就任します。明治29年(1896年)に立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同して進歩党を結成しました。当時は第2次伊藤内閣が発足し、議会安定の為に板垣退助率いる自由党と連立政権を組んでいました。
8月31日に松方正義による内閣が発足した時、松方正義は進歩党と接近する為、大隈重信を外務大臣として入閣させています。明治31年(1898年)6月22日に大隈重信は板垣退助率いる自由党と憲政党を結成。
6月30日に大隈重信が総理大臣兼外務大臣、板垣退助が内務大臣という第一次大隈重信内閣が発足しました。ただこの内閣は旧自由党と旧進歩党の対立により、わずか4ヶ月で内閣は総辞職します。
11月3日に大隈重信は旧進歩党の党員は憲政本党を結成し、明治33年(1900年)12月に党首に就任。ただこの頃は伊藤博文が立ち上げた立憲政友会が強い影響力を持っており、さしたる成果もあげられないまま明治40年(1907年)に党首を引退します。
その後の大隈重信は早稲田大学総長の就任など、教育や文化事業に携わる日々が続きました。一応政界復帰への野心は忘れておらず、明治43年(1910年)2月には憲政本党議員として復帰しています。
大隈重信の生涯④
大正3年(1914年)に山本権兵衛が総理大臣を辞任すると、大隈重信は2度目の総理大臣に就任します。当時は明治維新の後継者である元老が総理大臣を推薦しており、色々な人に断られた上での推薦でした。
大隈重信が2度目の総理大臣に就任したのは76歳。1度目の総理大臣就任から16年も経過しての事でした。大隈重信は立憲同志会、中正会を与党とした内閣を発足。7月から第一次世界大戦が勃発すると外務大臣・加藤高明の強い意向で大戦に参戦します。
大正4年(1915年)1月に日本は中華民国政府に対華21カ条要求を叩きつけており、これは中国全土から強い批判を浴びています。この内閣は大正5年(1916年)10月に退陣するものの、後の日中関係に大きな影響を与えた事は間違いありません。
総理大臣を引退した大隈重信は新聞上での評論活動などを中心に活動を続けました。元老の中には大隈重信を元老の仲間に加えたいと考える者もいましたが、大隈重信自身が元老の仲間になる事を拒んでいたようです。
大隈重信の死因と最期
大隈重信は大正11年(1922年)1月10日に腹部の癌と萎縮腎により85歳で死去します。早稲田大学や憲政会など、大隈重信を慕う者達は国葬での見送りや公爵への陞爵などを画策するものの、従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着しました。
国葬は行われなかったものの、1月17日に日比谷公園で一般人も参列できる「国民葬」が行われます。国民葬は約30万人もの一般市民が参列しました。晩年の内閣は失政だったかもしれませんが、大隈重信を慕う者はとても多かった事が分かりますね。
大隈重信の性格と人物像エピソード
明治政府きっての行動派
大隈重信は明治維新の諸改革、政党の立ち上げなど様々な分野に関与しました。政府には様々な考えを持った人がいましたが、大隈重信は急進的な改革を訴え、たびたび対立しています。これは大隈重信が行動力のあった人物である事を表しています。
一方で政策においては失敗も多かったのは事実です。伊藤博文と大隈重信の性格を表すエピソードとして「碁」が挙げられます。伊藤博文は次の一手を考えてから打つのに対し、大隈重信は後先を考えずにどんどん手を進めました。大隈重信は自分が不利になった所で対策を考えるのですが、結局負けてしまう事が多かったのです。
明治14年の政変でも大隈重信は伊藤博文の策略で明治政府を下野していますが、碁も政治の世界も根本は同じという事でしょう。
字を書かなかった
大隈重信の直筆として残されているのは「大日本帝国憲法発布の際の国務大臣連盟の副署」しかありません。これは弘道館在学時代に字の上手かった学友がいて、「書かなければ負けることはない」と大隈重信が考えた為です。
その後の大隈重信は字を一切書かず、勉強する時は全て暗記。本を著す際には口述筆記で済ませました。結果的に大隈重信は自ら字を書く事なく生涯を終えたのです。
ただ字を書かない分、大隈重信の暗記力はずば抜けていました。大蔵省時代は予算書をすべて暗記し、総理大臣就任時も議会の内容などは覚えていたのです。このエピソードは大隈重信の負けず嫌いな性格と、優れた記憶力を持つ人物である事を示しています。
最古の始球式
明治41年(1908年)に早稲田大学野球部の国際親善試合で日本最古の始球式が行われて、大隈重信はその投球役を務めました。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく外れてしまいますが、バッターは総理大臣経験者で早稲田大学創設者の大隈重信の球をボールにしては申し訳ないと考え、わざと空振りをしてストライクにしたのです。
これ以降始球式で投手役に経緯を示す為、どんなボール球でも空振りをする事が通例になります。大隈重信は野球界にも大きな影響を与えているのです。
大隈重信がやったこと・功績
大隈重信は幕末から大正に至るまで実に波瀾万丈であり、彼が行った事や功績は分かりにくいかもしれません。そのため大隈重信の功績を各分野に分けて解説していきます。
幕末の功績
大隈重信は安政2年(1855年)頃から肥前藩に存在した尊皇派のグループである「義祭同盟」に参加しています。こちらの「義祭同盟」では江藤新平や副島種臣などの明治維新に活躍した人材が多く参加しています。
肥前藩は幕末に「眠れる獅子」としてあえて倒幕運動に参加はしていなかったものの、その圧倒的な軍事力で薩長土肥の四藩に潜り込む事が出来ました。その素地は大隈重信達を含めて多くの優秀な人材が揃っていた事が大きいでしょう。
明治維新での活躍
大隈重信は肥前藩の一員として明治政府で要職を務め始めます。前述した新貨条例の制定、版籍奉還への実務だけでなく、大隈重信は優れた英語力を駆使してイギリス公使パークスと隠れキリシタンの弾圧問題である浦上四番崩れにも関与。無事に解決に導いています。
大蔵省の役人としては地租改正の改正や殖産興業政策、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設にも関与。更に日本の経済発展の為に統計を正しく測定する重要性を説き、会計検査院の創設にも尽力しました。明治維新の諸改革全般に大隈重信は関与しているのです。
民権派の政治家や外務大臣として
明治14年の政変後は立憲改進党の党首として自由民権運動を主導。明治20年(1887年)になると外務大臣としても手腕を発揮します。対立していたにもかかわらず再び政府に入閣したのは、一見すると不可解に思われるかもしれません。ただそれは不平等条約の改正に心血を注ぐためでした。
更に大隈重信は短期間ながら内閣を発足していますが、これは日本初の政党内閣でした。大隈重信は自由民権運動を主導し、議会や政党の重要性を日本に浸透させたのです。
第二次大隈重信内閣
様々な分野で功績を残した大隈重信ですが、「晩節を汚した」と言えるのが第二次大隈重信内閣での行動です。中華民国北京政府に対して対華21ヶ条要求を叩きけた事で、欧米列強や中国は日本に強い反感を持つのです。
更に大隈重信は強硬案をとった加藤高明外務大臣を後任の総理大臣にする為、元老達に様々な働きかけを行いました。最終的に大隈重信は元老達の支持を失い、内閣は総辞職となります。大隈重信は2度目の総理大臣に就任した事で晩節を汚したのかもしれません。
早稲田大学を創立した理由
大隈重信が早稲田大学の創立者という事は有名ですが、創立した理由についてはあまり知られていません。ここでは大隈重信が早稲田大学を創立した理由について解説していきます。
前身は東京専門学校
大隈重信は明治14年の政変で政府を去ると、立憲改進党を立ち上げます。大隈重信を含めた立憲改進党の幹部達は「立憲政治の指導的人材を育成する事を目的とした学校」の必要性を感じたのです。
結果的に1882(明治15)年10月21日に政治経済学・法律学・英学・理学などを学ぶ事が出来るに東京専門学校が設立したのでした。
ちなみに東京専門学校は東京府下早稲田に作られますが、ここは大隈の別荘に隣接して建てられます。当初は立憲改進党の党首である大隈重信が設立に関与していた為、政府は様々な妨害をしています。
しかし先駆的な教育を導入していた事もあり、徐々に経営は安定。1902年(明治35年)に「早稲田大学」への改称が認可されています。
なおこの時点で早稲田大学は旧制専門学校という立場であり、旧制大学として認可されるのは1920年(大正9年)2月5日の大学令の公布後です。大隈重信が設立した早稲田大学は今も日本の将来を担う若者たちを輩出しています。
大隈重信の名言・口癖
諸君は必ず失敗する。成功があるかもしれませぬけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。
大隈重信が東京専門学校の卒業式で卒業生に述べた言葉です知名度とは裏腹に大隈重信は政策が頓挫したり、政府から追放されるなど、数多くの失敗があった事も事実です。
失敗した事を恐れるのではなく、失敗を恐れて何もしない事こそが恐ろしい事だという事を大隈重信はよく分かっていたのですね。
大隈五訓
大隈重信には大切にしていた5つの教えがあり、それは大隈五訓と呼ばれています。
内容は以下の通りです。
一、何事も楽観的に見よ
二、怒るな
三、驕るな
四、愚痴をこぼすな
五、世の中の為に働け
一連の五訓は早稲田大学にも古くから伝わっており、学生達の人生観にも大きな影響を与えているのです。
あるんである
大隈重信の口癖です。大隈重信の演説は「吾輩は」で始まり、最後に「あるんである」さらには「あるんであるんである」と締める事がしばしばあったのです。
この口癖は非常に耳に残りますし、大隈重信の持ち味となりました。この口癖は2021年の大河ドラマ・青天を突けでも披露されていました。
大隈重信の家族や子孫
様々な功績を残した大隈重信ですが、その血を引く子孫は今も健在なのでしょうか。こちらでは大隈重信の家族や子孫について解説していきます。
大隈重信の妻
大隈重信は2回結婚しており、最初の妻・美登との間に熊子という一人娘をもうけています。美登とは離婚しており、詳しい事は分かっていません。
大隈重信は1869年に2人目の妻、綾子と再婚しています。2人の間に実子は授からなかったものの、50年にわたり大隈重信を支え続けた良妻と言われています。明治14年の政変で大隈重信が政府から下野した時も節約と土地の売り喰いで生活を繋ぎました。
大隈重信がテロで右足を決断した時も大隈重信の杖となり献身的に支えたとされます。大隈重信が長年様々な分野で功績を残せたのは綾子のおかげと言えるでしょう。
大隈重信の子供
大隈重信は前妻との間に熊子という1人娘をもうけ、南部藩15代目の藩主・南部利剛の次男・英麿を婿養子にします。ただ南部秀麿の他人の負債の保証人になった事で明治35年(1902年)に離婚。この時に熊子も大隈家の継承権を失っています。
ただ大隈重信は熊子だけでなく、女中との間に生まれた光子という婚外子がいました。光子は綾子の実家である三枝家の戸籍に入っており、子供として認知はされていなかったものの、熊子の離婚騒動を経て1902年に「大隈重信の養子」として大隈家に入る事が出来ました。
非常にややこしいのですが、大隈重信の「実子としての血筋」は絶えずに続く事になったのです。
大隈重信の子孫
熊子に実子は授からなかったものの、光子は伯爵・松浦詮の五男である信常を養子にとり大隈家の家督は相続されます。信常は貴族院議員や日本職業野球連盟などを務めています。
信常の子供の大隈信幸は国会議員や外交官として活躍。コロンビア駐箚特命全権大使、ガーナ駐箚特命なとも務めました。子供として長女の和子氏、次女の治子氏、三女の明子氏がいる事が分かっています。大隈重信の子孫は現在も続いているのです。
大隈重信のゆかりの地
大隈重信記念館
大隈重信の旧宅に隣接された記念館です。大隈重信の生誕125年を記念し1966年に建てられました。当時の記念館をデザインしたのは早稲田大学名誉教授の今井兼次。2015年にリニューアルされ外装も内装も一新されました。記念館には貴重な遺品や資料が展示され、大隈重信の軌跡を学ぶ事ができます。
住所:佐賀市水ヶ江2-11-11
早稲田大学
大隈重信が設立した大学です。大学内には2体の大隈像が存在し、1つ目は有名なガウン姿の立像で、皆さんもテレビなどで観た事があるかもしれません。早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を記念して建立されました。受験シーズンになると受験生により賽銭が供えられる事もあるそうです。
もう1つは大学内の大隈講堂内にあり、1907年に大学創立25周年と大隈の数え年70歳を記念して建立されました。大隈重信は今も学生達を見守っているのです。
大隈重信の関連人物
渋沢栄一
渋沢栄一は日本銀行を設立する等、日本経済の父として知られており、2021年の大河ドラマで主役となりました。渋沢栄一は明治維新後に大蔵省の役人として働く事になりますが、そのきっかけを作ったのが大隈重信だったのです。
明治2年(1869年)10月に渋沢栄一は大蔵省出仕の命令を受けたものの、当初はその誘いを断るつもりでした。そんな渋沢栄一を説得したのが当時大蔵省の次官だった大隈重信。彼は「新日本の建設に従事する事への重要性」を渋沢栄一に説き伏せ、大蔵省入りを認めさせています。
大隈重信と渋沢栄一は様々な事業を実行に移すものの、明治6年(1873年)頃から政策の方向性の違いで対立。渋沢栄一は上司の井上馨と共に明治16年(1883年)に辞表を提出し、大蔵省を去りました。
ただ対立はあくまで政策面の話であり、両者はその後も連絡を取り合っていた事が知られています。大隈重信は渋沢栄一の事業を支え、渋沢栄一は大隈重信の殖産興業政策を民間面から支えていたのです。
伊藤博文
伊藤博文と大隈重信の関係は複雑です。大久保利通亡き後は大隈重信は伊藤博文と良い関係を築くものの、明治14年の政変では両者は対立。しかし第一次伊藤博文内閣の外交政策が行き詰まると、大隈重信は外務大臣として入閣を果たしています。
ちなみに明治30年(1897年)に大隈重信は神奈川の大磯に別邸を建てますが、この別邸から60m程の距離に伊藤博文の本邸があったのです。両者は物理的にもかなり近い位置にいた事が分かります。
両者は政策的に対立する事はありつつ互いを高く評価していました。伊藤博文は大隈重信が東京専門学校を設立した事に対し「たゞ頭を下げる外はない」と述べており、大隈重信は伊藤博文が暗殺された時には「なんと華々しい死に方をしたものか」とその死に様を羨ましく思いつつも号泣したのです。
大隈重信の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
福澤諭吉と大隈重信―洋学書生の幕末維新
今回の記事ではあまり触れる事が出来ませんでしたが、慶應大学を創設した福沢諭吉と大隈重信の仲は良好でした。本書は大隈重信と福沢諭吉の生涯とその接点に焦点をあてた作品です。
日本を代表する大学を創設した2人の足跡を知る事で、日本の教育の発展のあり方を知る事が出来るでしょう。
大隈重信、中国人を大いに論ず 現代語訳『日支民族性論』
大隈重信が2度目の総理大臣に就任した際に、若き日の堤康次郎に口述したもの書籍にしたものです。大隈重信の持つ中国人に対する価値観は割と辛辣に感じるかもしれません。
ただ当てはまる部分が多いのもまた事実。本書を読む事で現在にまで尾を引く日中問題が分かるかもしれません。
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歴史的音源 「大正4年、大隈重信の演説」
大隈重信の演説を録音したもの。天保生まれの人物の肉声が残っている事自体が貴重といえますね。時期的には彼が総理大臣に就任していた頃のものになります。
おすすめの映画
日本暗殺秘録
1969年に放映された作品で、幕末・明治・大正・昭和の四時代に発生した暗殺事件をオムニバス形式にしたもの。大隈重信遭難事件の他に桜田門外の変・紀尾井坂の変・星亨暗殺事件・安田善次郎暗殺事件・ギロチン社事件・血盟団事件・相沢事件・二・二六事件が再現されています。
大隈重信を演じたのは矢奈木邦二郎という人物でした。どの場面も鬼気迫るもので、各時代の激動を群像劇として観る事が出来ます。古い作品とはいえ、いまなお色褪せない名作です。
おすすめドラマ
青天を衝け
渋沢栄一を主人公にした2021年の大河ドラマです。大隈重信を演じたのは大倉孝二氏。大蔵省出仕を断る渋沢栄一を説得する場面も描かれており、「である」という口癖も披露されていました。最終回でも大隈重信は登場し、渋沢栄一に「アメリカと戦争の道に進んではならない」と思いを託しています。
渋沢栄一は大正の世になってから総理大臣に就任した大隈重信を批判する場面があるものの、大隈重信は「明治維新の尻拭いをしている」と言い返すシーンがあります。
大隈重信自体は幕末を舞台にした大河ドラマで登場する事はありますが、苦悩する政治家という面を描いた作品は少ないので、貴重な作品と言えますね。
いだてん〜東京オリムピック噺〜
2019年に放送された大河ドラマです。大隈重信を演じるのは平泉成。本作品では早稲田大学総長として登場し、三島家のパーティーに参加。嘉納と天狗倶楽部を引き合わせる重要な役を演じています。青天を衝けとは違った大隈重信を観る事が出来ますよ。
大隈重信についてのまとめ
今回は大隈重信の生涯や人物像について解説しました。大隈重信の生涯は挫折と失敗の繰り返しでもありました。それでも大隈重信が未だに人気を博しているのは教育者としての功績や、国民のために行動する政治家として声を上げ続けていた事が大きいでしょう。
大隈重信は幕末から大正時代にかけて第一線で活躍したものの、その動向はとても複雑です。今回の記事だけではその全てを解説する事はできていないので、書籍を読みながらその足跡を学んでいただけたらと思います。今回の記事を通じて大隈重信に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大隈重信
早稲田大学 大隈重信自叙伝