呂布は中国後漢末期の武将です。名を奉先と言い、呂布奉先と呼ぶ事もあります。項羽と並び三国志では人気があり、最強の武将の一人と言われています。今回は呂布の生涯、名言、偉業について説明していきます。
目次
呂布とは?
呂布は中国後漢末期の武将です。猛将として知られていますが、主君への裏切りを繰り返してのし上がったという背景があります。最後は曹操に捕らえられ命乞いをしますが、縛り首となりました。
三国志の時代を表した書物は、正史である三国志と、より物語風に分かりやすく表した三国志演義があります。また彼の様々なエピソードは三国志演義にも記されていますが、今回の記事は三国志(史実)の呂布を中心に記載していきます。
正史では弓術と馬術が巧く、膂力に優れた人物であり、「飛将」と呼ばれていた事などが記載してありますね。
生まれ
呂布の詳細な出生は分かりません。正史では并州の五原郡で生まれたとされています。ここは現在の中国とモンゴル自治区の国境付近になります。中国人に代表的される漢民族は基本的には農耕民族ですが、当時のモンゴル人は騎馬民族でした。呂布は漢民族と騎馬民族の混血、もしくは騎馬民族だった可能性もあります。
身長
史実では呂布の身長の記載はありません。
三国志演義では「身の丈は一丈、腰回りは十囲」という記載があり、現在に換算すると2m30cmの大男になります。創作の可能性が高いですが、史実でもかなりの猛将だったので、体格は大きかったのではないでしょうか。
性格
正史の著者陳寿は「呂布は虎の勇猛さがありながら英略を持たず、軽はずみで狡猾、何度も裏切り、自分の利益しか頭になかった。こんな人物は、今も昔も破滅あるのみ」と評しています。
呂布は様々な武功を挙げますが、何度も裏切り、主君を鞍替えしています。その裏には人を信じられない疑念の心があったのかもしれません。性格は、猛将としての豪快さと、臆病な一面を併せ持っていたのでしょう。
呂布の人生年表・生涯
人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
生年不明 | 誕生 |
??? | いつからか丁原に仕えるようになる |
189年 | 丁原を裏切り、董卓と親子になる |
191年 | 陽人の戦い |
192年 | 允恭と手を組み、董卓を殺害 允恭の暗殺 呂布は落ち延びる |
192〜194年 | 各地を転々とする |
195年 | 張 超と陳宮らと曹操に反旗を翻す。 曹操に敗北。劉備を頼る |
198年〜199年 | 下邳を陥落させる等隆盛を極めるが、処刑される。 |
呂布の出生と当時の背景
史実の呂布の幼少期の事は不明です。記録としては并州(現在の内モンゴル自治区)の丁原に仕え、会計係として重用されたところからです。
その頃は後漢12代皇帝霊帝が後漢を治めていますが、189年に死去。霊帝の皇后の兄の何進と、霊帝時代の実権を握っていた十常侍(去勢された役人)の争いが勃発。
何進は十常侍に殺害され、十常侍は何進の部下に皆殺しにされます。董卓という軍人が霊帝の子を保護して都のある洛陽に入り、権力は混乱の最中に董卓に移ります。
丁原への裏切り
丁原は呂布を連れて、董卓と権力争いを行いますが、董卓が呂布を懐柔。董卓から赤兎馬を貰う事で呂布は丁原を裏切り殺害します。呂布は董卓に主君を変え、親子の契りを交わします。
董卓への裏切り
191年 董卓と反董卓軍の争いが勃発。董卓は洛陽から長安へ撤退(陽人の戦い)。その後董卓の部下の王允が呂布を懐柔。史実では呂布が董卓の侍女と密通している事がバレたら危ないので王允を手を組んだ事になっています。後日呂布は長安にて王允の刺客と共に董卓を暗殺します。
王允の暗殺
董卓暗殺後、呂布は董卓の部下の処遇をめぐり王允と対立。王允は董卓暗殺の功労者だった呂布の事をただの便利人としか思っておらず、対立していきます。その後董卓軍の生き残りが盛り返し、長安は陥落。今回は王允を裏切らず、王允を逃がそうとしますが、王允は幼帝を置いて逃げれず、捕まり後に処刑。呂布は生き延びます。その後は各地を転々をします。
曹操の土地を奪う
その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取る事にします。狙いをつけたのは兗州の曹操の土地でした。曹操が戦いの為兗州から去ると、張 超と陳宮が呂布を招き入れて、曹操に反旗を翻します。呂布の技量もあり、兗州の城を次々と落としていきますが、曹操が徐州から戻ると1年の戦いの末に敗北します。
劉備の元へ向うが……
最後に徐州を支配していた劉備を頼ります。しかしやがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布は劉備の土地である下邳を奪います。
その後曹操が大軍を率いてやってくると、下邳の城に籠城する事を余儀なくされます。
部下の城の水攻めにより、呂布の部下の侯成が裏切り、呂布の部下の策士である陳宮を捕えます。呂布も觀念し、投降します。裏切り続けた呂布の最期は部下の裏切りによるものでした。最も全部の部下から裏切られたのではなく、呂布は曹操に追い詰められた際、自分の側近の部下達に、自分の首を斬って、それを手土産に曹操に降るように命じますが、部下達がそれをしなかったため、やむなく生きたまま曹操に捕まっており、人望自体はあったようですね。
呂布のエピソード・逸話
不信感が招いた裏切り
人を裏切り続けた呂布ですが、最後は部下の侯成の裏切りにより敗北します。裏切った原因は呂布への不信感です。
侯成の命令で馬を飼育していた食客が裏切り、劉備の元に寝返る事がありました。無事に馬を取り返した侯成は、お祝いの意味で呂布に酒と猪肉を差し出しました。
しかし呂布は禁酒中で苛立っており、諸将とともに飲食して義兄弟の契りを結び、共謀して反乱を起こすつもりなのかと侯成に恫喝しました。三国志演義では更に侯成は罰棒50回の刑を加えられています。
これが原因で侯成は呂布を裏切る事になります。部下への信頼があれば、もう少し長生き出来たかもしれません。
方天画戟
呂布が使用した武器は方天画戟と言われています。長い柄の先に金属製の尖った矢じりがつき、そのすぐ下に三日月状の刃が付いています。三国志演義では呂布の方天画戟は12kgあったと言われます。何処までが本当か分かりませんが。
呂布の死因や最期
呂布は捕縛され、曹操の前に連行されます。「縛り方がきつすぎるので、少し緩めてくれ」と呂布は縄を緩めて欲しいと言いますが、曹操は「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と答えます。呂布への警戒心は強かったのですね。
その後呂布は曹操に自分を部下にするよう提言します。呂布の誘いに曹操は一度心が揺れますが、劉備が呂布の裏切り(丁原や董卓へのエピソード)を話すと、曹操は頷きます。呂布は「劉備が一番信用出来ない者だ」と言うが聞き入れられずに縛り首となります。最後まで命乞いをしていたそうです。
呂布の忠臣も処刑されます。侯成は史実にも、三国志演義にもその後は記載されておらず、その後は分かりません。
呂布の名言
自ら人を遇するに礼なきを以って、人の己を謀るを恐る
自分は義に欠けた振る舞いをしていて、何かあると常に反旗を翻してきた。だからこそ自分また誰かに裏切られるのではないかと恐れている。
自分が降伏したならば天下に最早心配はないだろう。曹操が歩兵を、自分が騎兵を率いたならば天下を取るのは容易い
呂布が捕らえられ、曹操に言った言葉です。何度も裏切りを重ねた彼は次もまた裏切るつもりでいたのでしょうか。
呂布にゆかりのある地
墓
呂布の墓は当然中国にあります。河南省修武県郇封鎮小蘭封村にあるようです。有名な人物ではありますが、墓はかなり入り組んだ所にあります。墓碑も像も無く、小さな廟と土盛のみで、とても簡素な墓です。修武汽車站から武陟行きに乗車し、王村で降りるそうです。中国に行く機会があれば是非。
記念館・資料館
日本では常に開館している記念館や資料館はありません。ただ東京博物館等で定期的に三国志の展覧会が開かれる事があります。
直近では三国志時代の貴重な資料を展示した特別展が
東京博物館において
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝) に開かれていました。
また九州国立博物館において
2019年10月1日(火)〜2020年1月5日(日)まで開催するようですね。
呂布の子供や子孫について
呂布の家族についての記載は具体的には書かれておらず、正史や三国志演義から推測するしかありません。先に伝えておくと、呂布に娘がいた事は判明していますが、その後は一切不明なので、子孫については不明です。
正妻
呂布の妻の記載があるのは、正史の後半。劉備に会うところです。呂布は劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。と書かれています。
ちなみにこの一連の行為に対して劉備は、呂布の行動には一貫性がないと言い捨てています。
その後曹操に城が攻められた際に、軍師の陳宮が城から出陣する事を提言しますが、妻はそれに猛反発。呂布は捕まります。戦を知らないのに軍師に口出しをした事からも悪妻と言われています。
ちなみに三国志演義では巌氏とされていますが、史実で名前の記載はありません。
正妻の娘
史実では徐州を呂布が支配した際に、袁術が自身に危害が及ばないよう、袁術の息子と呂布の娘を結婚させ、立場を守ろうとした事が書かれています。最初は呂布は同意しますが、部下に提言され、考えを改め婚約を破棄します。袁術の使者を斬り捨てており、それがきっかけで袁術は大量の軍を送り込んでいます。ちなみに呂布は圧倒的不利な状況から勝利しています。
娘の名前は政治には記されていませんが、ゲーム等では呂玲綺と呼ばれる事が多いですが、これはゲームで名前をつける必要があった為で、出典等はありません。
巌氏と玲綺は呂布が曹操に捕縛されて処刑された後、家族と共に許昌に送還されており、その後の消息は不明です。
貂蝉
側室といわれていますが、真偽は不明です。史実で、董卓の侍女に呂布が手を出した という事を紹介しましたが、それが貂蝉です。史実ではその程度にしか書かれていませんが、三国志演義では大幅に脚色されています。
絶世の美女と呼ばれ、王允が董卓と呂布の親子関係を壊そうとして送り込んだ存在です。王允は貂蝉を娘として呂布に引き合わせます。呂布は一目で気にいり、側室にもらい受ける事を約束。日にちを考えている内に、王允は董卓にも貂蝉を引き合わせます。当然王允も貂蝉を気に入ります。
貂蝉は双方にいい顔をし、呂布の董卓への憎悪を掻き立てさせます。結果的に作戦は成功し、呂布は董卓を殺害しました。
その後は呂布の側室となったらしいです。その後はあまり記載がなく、最後の曹操との戦いで、巌氏と共に城から呂布が出陣するのを止めています。その後の消息は不明です。
貂蝉との間には子どもはおらず、呂布の子孫が生き残っているならば、正妻の娘の子と言う事になりますね。
呂布を題材とした作品(小説・ドラマ・映画・ゲーム)
小説
中国では三国志は昔から人気であり、三国志演義が有名です。中国は儒教の影響が根強く、主君や親への忠義を果たす人が好まれていました。主君を裏切り続けた呂布は以前はとても嫌われていたのです。墓が簡素なのもその影響かもしれません。
しかし日本では、呂布の裏切りを人間臭さと捉える見方も多く、三国志の人気の一つになっています。そんな呂布の設定は中国に逆輸入され、中国でも呂布の人気は高まっているようですね。
吉川英治の三国志、北方謙次の三国志等が有名です。呂布に人間らしさを付加したものが多く、日本での人気に火がついた要因でもあります。
ドラマ・映画
三国志 Three Kingdoms こちらは全7部95話と超大作です。小説「三国志演義」をベースに史実も反映した作品です。80年間のストーリーなので、呂布が出る期間は短いです。しかしこのドラマは曹操を主役にしており、呂布は序盤の大きな敵として登場しています。映画ではレッドクリフが有名ですが、これは赤壁の戦いを描いており、呂布が処刑されたのはそれよりずっと前なので、登場していません。時期的に呂布が映画に出る事はあまりないのかもしれません。2020年に大泉洋主演で新解釈三国志が上映されるので、そちらで描かれるかもしれません。
ゲーム
三國無双が1997年に発売され、その時に呂布の人気が更に高まります。呂布は元々の強さも相まってかなり強いキャラと設定されています。また専用のテーマ曲が作成される等優遇されています。