前田利家は加賀百万石の礎を築き、豊臣秀吉の重臣として活躍した人物です。今回は前田利家の生涯、名言、偉業について解説していきます。
目次
前田利家とは?
前田利家は、尾張国の新子城主である前田利春の四男として生まれ、織田信長の元で頭角を現します。信長亡き後は豊臣秀吉の元で活躍し、五大老に任命されます。豊臣秀頼の養育係となり、秀吉亡き後の大阪城の実質的主となります。しかし間もなく利家も病の悪化で亡くなってしまいます。家康を押さえる事の出来る有力者がいなくなり、関ヶ原の戦いの戦いに繋がっていきます。
生まれ
尾張国海東郡の荒子村(現在の名古屋市中川区)に生まれます。生年は1537年、1538年、1539年説があります。
身長
遺された利家の着物から推定6尺(182cm)とされています。当時の成人男性の平均身長が157cmだったので、とても体格が良かったようですね。
性格
若い頃は短気で喧嘩早く、派手な格好をした傾奇者だったそうです。後に信長に干されてしまい、浪人生活を送った後は心を入れ替え、律儀で人徳のある性格に変わっていきます。豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われていたようです。家康も利家の生きている内は下手な事は出来なかったようで、利家の人望の高さが伺えますね。
前田利家の家紋
前田氏の家紋は加賀梅鉢と言い、梅を形取ったものになります。梅は縁起が良いとされ、古くから紋様としてありました。加賀前田家は独自に梅をデザインして、この紋様になったとされます。 前田氏は、菅原道真の一族である美作菅氏の末裔を自称しています。梅は菅原道真のシンボルと言われており、強い結びつきがありました。
前田氏が菅原氏の末裔かについては、尾張新子城主の前田利春以前の血筋は不明な事もあり、定かではありません。しかし家紋からも菅原氏の事を意識していたのは間違いありません。
後に前田利家は加賀藩の祖となりますが、加賀地方は前田利家が来る前から天神信仰(菅原道真を天神様として、畏敬や祈願の対象とする考え方)が盛んでした。天神信仰が地元の人と、前田家との結びつきを強めた事は間違いないでしょう。
前田利家の人生年表・生涯
まつとの結婚まで
天文7年(1539年)頃 尾張国新子村にて誕生
天文20年(1551年) 織田信長に仕える
永禄元年(1558年) まつと結婚
尾張国の新子城主である前田利春の四男として生まれます。嫡男は長男の利久が継ぐ事が決まっており、彼もやさぐれていたのか、短気で喧嘩早く、派手な格好をした傾奇者でした。そんな利家が仕えたのは家柄等にこだわらず実力主義だった織田信長です。
若い頃の前田利家は武具は三間半(6.3m)もの長槍を駆使し、槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていました。信長も利家に期待していたようです(衆道つまり同性愛の記録あり)様々な戦いで武功を挙げる中、利家(22歳)は、まつ(12歳)と結婚。翌年には長女も生まれでいます。
信長の元で活躍する
永禄2年(1559年) 信長の元を出奔する
永禄4年(1561年) 信長に許される
永禄12年(1569年) 信長の命で前田家の家督を相続する
天正9年(1581年) 七尾城主となり23万石の大名となる
順風満帆に見えた利家ですが、1559年には信長の異母弟で雑用を務める同朋衆の拾阿弥を、織田信長の目の前で斬殺するという惨事を行い、信長から追放されています。信長は拾阿弥をとても大切に思っていたので処刑もあり得ましたが、豊臣秀吉や柴田勝家の嘆願もあり、出仕停止処分に減罰されます。
浪人時代の利家は桶狭間の戦いや森部の戦いに無断参戦し、その都度首を挙げる功績を残し、2年かけて信長に許されます。 1569年には何かと頼りなかった嫡男の利久の代わりに、信長の命令で前田家の家督を相続します。この時、利久と養子の前田慶次郎は新子城から追い出されています。その後も姉川の戦いや長篠の戦い等、名だたる戦いに参加し、その都度成果を挙げています。
1574年からは柴田勝家の与力となり、越前にて一向一揆の鎮圧に従事。北陸を拠点に活動していきます。とうとう1581年には七尾城主 23万石の大名となります。
豊臣政権の有力者となる
天正10年(1582年) 本能寺の変 清洲会議
天正11年(1583年) 賤ヶ岳の戦い 本拠地を金沢に移す
(1584年) 小牧長久手の戦い 領地は90万石となる
慶長
1582年には本能寺の変で信長が死にます。その後の後継者を決める清洲会議では、羽柴秀吉と柴田勝家が対立します。利家は勝家の与力だったので、勝家側に付きますが、秀吉とは若き頃からの旧友だったので、その立場に苦しんだようです。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉と勝家が戦います。利家は勝家側に付きますが、秀吉の誘いを受け、戦いの最中に突然撤退。その為、柴田勢は総崩れとなり豊臣勢の勝利となりました。戦後は城の場所を現在の金沢城に移しています。
その後の小牧長久手の戦い後は功績から領地は90万石となります。
晩年
慶長2年(1597年)豊臣秀頼の守役になる
慶長3年(1598年) 隠居 五大老に任命される
慶長4年(1599年) 死去
1586年以降、前田利家とまつは上洛して、豊臣秀吉の側近として大阪城下で仕えており、秀吉にとってなくてはならない存在となります。後に秀頼が生まれた後も守役として秀吉を補佐します。
1598年には秀吉も利家も衰えが見え始め、利家は隠居しますが、実際には隠居は許されず、前田利家は、五大老・五奉行の制度を定めた大老の1人に任じられます。そして同年8月18日、豊臣秀吉は、前田利家らに嫡子・豊臣秀頼の将来を繰り返し頼んで没しました。
豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城に入り、前田利家が豊臣秀頼の補佐として大坂城に入り、豊臣政権を指揮していきますが、徳川家康が無断で各大名と婚姻を結び、不穏な動きを見せます。
利家は反発し、5大老の家康以外の3人も利家を支持。家康も怪しい事はしないと皆に誓います。家康は利家が生きている内は、下手な事は出来なかったのですね。利家と家康が和解した後で、利家の病状は悪化していきました。
前田利家の死因や最後の時
晩年になり、利家は床伏しがちになります。まつはが「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と危篤の際には経帷子を利家に渡したそうです。
しかし利家は「儂は今まで沢山の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。地獄に行ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。経帷子はお前が後から被って来い」と言ったそうです。
一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。
どちらにしろ豪傑な生き様だった利家らしいです。これらのエピソードもあり、辞世の句は残っていません。
前田利家のエピソード・逸話
利家の甲鎧
利家の甲鎧の正式名は「金小札白糸素懸威胴丸具足」 全体に漆を塗って金箔を押した黄金の甲鎧です。
兜は熨斗烏帽子形の変わり兜で、錣(しころ)の上には、白いヤクの毛でできた引廻しが付いています。兜は地震を起こすナマズをモチーフにしており、地震が起きた時のように人を驚かす事を表しています。
前田利家の名言
人間は不遇になったときこそ最も友情の深さがわかる
利家は若き頃に信長からクビを言い渡され、不遇の期間を過ごしました。その時には多くの人が利家から去りましたが、秀吉や勝家などは彼の嘆願を信長に求めたそうです。
苦しい時期にも変わらず手を差し伸べてくれる人こそが、信頼すべき人であり、生涯に渡るパートナーになります。利家は不遇時代の経験を活かし、復帰後は律儀な人へと変わっていきます。
前田利家にゆかりのある地
墓
利家の墓は金沢の野田山墓地にあります。墓地自体は兼六園の4倍の広さで、江戸時代の大名の墓地として会津藩の次に大きいです。
野田山墓地の最も標高の高い位置に利家の他、まつなどの正室や、歴代藩主も眠っています。
記念館・資料館
前田土佐守家資料館
前田土佐守家は利家の次男 前田利政を祖とする加賀藩の重臣の家系です。こちらの資料館では利家をはじめとした前田家の貴重な資料が9000点ほど貯蔵されています。土佐守家歴代当主が文書の保存・整理に努めてきたため、散逸や損傷等が少なく、膨大な歴史資料が良好な状態で保存されています。
前田利家の妻や、子供、子孫について
まつ(芳春院)
妻は まつ と言う名前が有名ですが、芳春院と言う名でも呼ばれています。まつの母は、利家の母の姉に当たる人物なので、従兄妹関係に当たります。若くして教養を身につけた女性だったようです。
1558年 利家 22歳頃 まつは数え12歳(満11歳)と言う年の差で結婚すると、翌年にはもう長女を出産しています。11歳から32歳までの約21年間で2男9女と11人もの子どもを産んでいます。
まつの記録自体は実は殆ど残っておらず、現在のイメージは大河ドラマの影響が強いです。まつが歴史上で明確な働きをしたのは、
賤ヶ岳の戦いにおいて、利家が一度秀吉を裏切った時に、秀吉と直談判をし、夫を許すように頼んだ場面
利家亡き後の1600年に、前田家が家康から謀反の疑いをかけられた際に、自ら徳川家の人質になることでこの争いを収めようとした場面
になりますね。
まつは徳川家の人質として何と14年も加賀に戻る事は出来ませんでした。その後1614年に加賀に戻った後、1617年に71歳でこの世を去ります。
長女 幸姫(1559-1616) まつの子
親類にあたる前田長種の正室。前田利常を養育します。
長男 利長(1562-1614) まつの子
加賀藩初代藩主。秀吉と利家が死去すると、家康は加賀征伐を画策しますが、まつが人質になる事で回避します。関ヶ原の戦いでは家康側に付きます。
全くの余談ですが、利長の肖像画は平清盛の孫の平資盛の肖像画と酷似しています。
次女 䔥姫(1563-1603) まつの子
家臣の中川光重の正室になります。
三女 摩阿姫(1572-1605) まつの子
豊臣秀吉の側室。秀吉死後は公家の万里小路充房の側室となったが、後に離縁。息子は前田氏を称し、高岡で奉仕し後に五千石を与えられます。
四女 豪姫(1574-1634) まつの子
宇喜多秀家の正室。洗礼を、受けており洗礼名はマリアです。関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が流罪になり、金沢に戻ります。
五女 与免姫(1575-1597) まつの子
浅野幸長との婚約が決まっていたが、17歳で死去。
次男 利政(1578-1633) まつの子
土佐前田家の初代当主。関ヶ原では西軍に付いたため、領地が兄の利長に渡ります。その後は京都の嵯峨に隠棲し、宗悦と号します。
六女 菊姫(1578-1584) 側室の隆興院の子
豊臣秀吉の養女となるも、8歳で夭折。
七女 千世姫(1580-1641) まつの子
細川忠興の長男忠隆の正室となり、徳を産みます。後に伯父の前田利久に仕える村井長頼の正室になります。
八女 福姫(1587-1620) 側室の金晴院の子
長好連を婿にするも亡くなり、中川光忠と再婚。
三男 知好(1591-1628) 側室の金晴院の子
1616年に出家し隠遁。弟が優遇された事が要因のようです。
四男 利常(1594-1658) 側室の寿福院の子
加賀藩2代藩主。利家の特長を受け継いだ立派な体格の持ち主。幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして暗愚を装ったと言います。
五男 利孝(1594-1637) 側室 明雲院の子
幼少期はまつと共に人質に。後に群馬の七日市前田家の初代当主。七日市は加賀前田家の参勤交代の中継地になります。
九女 保智姫(1596-1614) 側室 隆興院の子
篠原貞秀の正室。18歳で死去。
六男・利貞(1598-1620) 側室 逞正院の子
家臣の神谷守孝に育てられ、兄の利常に仕えた。
他にも早くに亡くなった子もいたので、凄い数になりますね。
子孫
これだけ沢山の子どもがいるので、子孫も現在まで続いています。代表的なところだけお伝えします。
前田利長
その後も血筋を残し、13代前田慶寧の代で明治維新を迎えます。現在の前田家当主は18代の前田利祐さんが継いでいます。ご子息として前田利宜さんがいるので、後に19代前田家を継ぐものも思います。豪姫
また宇喜多秀家の正室となった豪姫の子がその後も血筋を残し、現在も八丈島で秀家の墓守をしています。
千代姫
七女の千代姫が産んだ徳 は孝明天皇の母の正親町雅子に繋がり、今上天皇にも前田家の血は流れています。
前田利家を題材とした作品
小説
戸部新十郎が前田利家を主役にした小説を書いています。
また大河ドラマの原作としては竹山洋の利家とまつがあります。史実とは異なる部分もありますが、戦国時代の様々な出来事がドラマティックに描かれています。
ドラマ
大河ドラマとして、利家とまつ〜加賀百万石物語〜か2002年に放送されています。利家は唐沢寿明、まつは松嶋菜々子が演じていますね。戦国最強のホームドラマと銘打たれ、まつにもスポットが当てられた作品です。人気のある作品であり、大河で女性主人公が活躍するという構図が流行るきっかけにもなりました。
ちなみに利家とまつにおける経済効果は日銀試算によると786億円とされています。
映画
最近の映画では利家が主演のものはありません。戦国時代の映画なら必ずと言っていい程出ていますが、脇を固める役目が多いですね。昔を遡れば、前田利家と前田慶次郎を主役にした「あばれ大名」が1959年に放映されています。
参考文献
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/s/11104/bunkazaimain/torikumi/nodayamamaedake.html
前田利家―秀吉が最も頼りにした男