渋沢栄一は幕末から昭和初期にかけて活躍した武士・官僚・実業家です。500を超える企業や経済団体の設立に関わり、700を超える社会事業にも尽力しています。
2021年の大河ドラマの主人公に抜擢された他、2024年の新紙幣の肖像にも使用される事が決まっており、近年注目の集まっている人物です。
その功績から「日本資本主義の父」とも呼ばれますが、具体的に何をした人物か聞かれると分からない人も多いのではないでしょうか?今回は渋沢栄一の生涯や人物像について解説していきます。
目次
渋沢栄一のプロフィール
氏名 | 渋沢栄一 |
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通称・あだ名 | 避雷針、日本主義資本の父 |
出生日 | 天保11年2月13日(1840年3月16日) |
出生地 | 武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市) |
死没日 | 1931年11月11日 |
死没地 | 王子飛鳥山邸(現・東京都北区) |
身長 | 150cm |
配偶者 | 千代(先妻) 兼子(後妻) |
渋沢栄一の人生年表・生涯
渋沢栄一の年表(江戸時代)
年 | 出来事 |
---|---|
1840年 | 武蔵国で誕生 |
1861年 | 江戸に出奔 |
1863年 | 尊王攘夷運動に参加し、後に一橋慶喜に仕える |
1866年 | 幕臣となる |
1867年 | フランスへと渡航 |
1868年 | 政府から帰国を命じられる |
渋沢栄一の幼少期
渋沢は天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村で市郎右衛門元助とエイの長男として誕生します。渋沢家は藍玉の製造販売などを手がけた豪農でした。
渋沢は幼少期から算盤をはじき、藍玉の売り子や原料の仕入れなどにも関わります。後年の渋沢の功績は子供の頃に培われていたのです。
やがて渋沢は黒船の来航など、世の中が騒がしくなるにつれ、より勉強をしたいと考えます。渋沢は父の許可を得て1861年に江戸へ向かいます。そこで海保漁村から学問を学び、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場で剣術を習うようになりました。
幕末の渋沢栄一
やがて渋沢は勤皇志士の交流を経て、尊皇攘夷運動に傾倒します。横浜外国人居留地を焼き討ちする事や、長州藩と連携して倒幕を果たす事を考えますが、これらは未遂に終わりました。
やがて渋沢は1863年に京都に出ますが、当時は八月十八日の政変直後で勤皇志士が京都から一掃されていました。渋沢は勤皇志士としての活動に行き詰まります。
結果的に渋沢は1864年に、一橋家家臣・平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えます。当時の慶喜は京都で禁裏守衛総督という役職に就き、京都で独自の勢力を持っていたのです。
やがて1866年に慶喜が第十五代江戸幕府将軍に就任。渋沢は幕臣として取り立てられます。1867年にはパリで行われる万国博覧会に、慶喜の弟・徳川昭武が派遣されますが、渋沢も随行員としてパリに旅立ちました。
渋沢は先進的な産業・諸制度を見聞。これらは渋沢の様々な事象の設立に大きな影響を与えます。しかし渋沢が留学中に日本では大政奉還や王政復古の大号令など、目まぐるしく情勢が変わります。
やがて江戸幕府は消滅し、新たに明治政府が発足しました。渋沢は1868年5月に帰国を命じられるのです。
渋沢栄一の年表(明治以降)
年 | 出来事 |
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1868年 | 静岡藩に出仕し、翌年に新政府に出仕 |
1873年 | 第一国立銀行の監査役となる |
1877年 | 東京商法会議所を設立 |
1887年 | 女子教育奨励会を設立 |
1909年 | 実業界を引退する その後も精力的に活動を続ける |
1918年 | 徳川慶喜公傳を龍門社より刊行 |
1923年 | 関東大震災 |
1931年 | 91歳で死去 |
明治政府に出仕する
日本に帰国後の渋沢は、戊辰戦争を経て謹慎処分となった静岡にいた徳川慶喜に面会。慶喜から「これからはお前の道を行きなさい」と言葉を拝受します。しかし渋沢は旧恩に報いる為に、慶喜に仕えました。
しかし当時は新政府も人材が足りず、渋沢が留学で得た知識を求めていたのです。渋沢は大隈重信の説得により、1869年11月には新政府に出仕しました。渋沢は1871年に制度取調御用掛、枢密権大使という役職に就任します。
渋沢は日本に新たな貨幣制度を導入する為、国立銀行条例や貨幣制度改革などに着手。しかしこれらの制度改革は新政府には理解されにくく、常に意見の対立があったのです。やがて渋沢は1873年に政府から下野してしまいます。
実業家時代の渋沢栄一
しかしこれ程有能な人物を、世間がほっとく筈がありません。渋沢は自ら設立を指導した第一国立銀行の監査役に就任。日本最初の銀行の創業を担いました。
更に1874年に日本初の製紙会社・抄紙製紙の創設に着手。更に大阪紡績等の事業を立ち上げます。当初は赤字で苦労するものの、徐々に軌道に乗りました。
その後も渋沢は様々な事業に着手し、明治政府が主導する富国強兵政策の一躍を担う事になるのです。1877年には択善会を設立し、銀行経営者の連携を図ると共に政府に各種の提言を実施。政府になくてはならない人材となりました。
更に教育分野でも功績を残します。1875年には一橋大学の前身となる商法講習所を設立。女子教育にも力を注ぎ、1887年には女子教育奨励会を設立しています。女子教育奨励会は後に津田梅子等の女子教育が道を開くきっかけにもなったのです。
実業家を引退後の渋沢栄一
数え年70となった1909年に渋沢は実業家を引退。61もの会社役員を辞任しました。その後も精力的に活動を続け、1909年に渡米実業団を組織し団長として訪米。当時問題になっていた貿易摩擦等の問題解決に尽力します。
1918年には徳川慶喜公傳を龍門社より刊行し、旧恩ある徳川慶喜の名誉回復にも務めています。1923年に関東大震災が発生した時には自費で配給を行い、義援金集めにも奔走しました。
渋沢の情熱は歳をとっても衰える事はなかったのです。
渋沢栄一の死因と最期
渋沢は1931年11月11日死去します。享年91歳でした。
渋沢は数カ月前から大腸狭窄症を発症しており、死の一ヶ月前には開腹手術を受けていました。しかしその死は穏やかなものだったようで、王子飛鳥山邸で眠るように亡くなったそうです。
渋沢の死を多くの人が悲しみ、葬送の列を多くの人が見送った事が伝わっています。
渋沢栄一の性格
儒教の教えが根底にあった
渋沢は様々な事業を展開しましたが、国際協調や慈善事業、教育わ文化などの分野に還元していきます。渋沢の性格形成には儒教による2つの精神が根底にありました。
仁義道徳
→人として守るべき道。それにかなう生き方をする事。
公益第一
→皆にとって幸せになる道を第一に考える。
渋沢は儒教(論語)と経済(算盤)は両立する事が重要と考え、「道徳経済合一説」を常日頃から主張していました。渋沢の性格には儒教の教えが色濃く反映されているのです。
実は激しい一面も?
そんな渋沢ですが、若い頃は尊皇攘夷派の志士として横浜外国人居留地を焼き討ちを計画しています。過激な一面も渋沢にはありました。でもそれは「日本を良くしよう」という確固たる気持ちがあっての事です。
やがて時代が明治になるにつれ、渋沢は日本の発展に大きく寄与します。渋沢の国を思う気持ちは違うベクトルで脱退されたのです。
渋沢栄一は何した人?功績について
第一国立銀行の創設
渋沢は1873年に第一国立銀行を創設します。これは日本初の銀行であると共に日本最初の株式会社でした。
渋沢が銀行を創設したのは「企業を興す為に資金が必要な人に、必要な分の資金を融資する為」です。ちなみに第一国立銀行は様々な変革を経て、みずほ銀行となっています。
その後も渋沢は、全国の国立銀行の指導や支援を第一国立銀行を通じて行います。1877年には第二十国立銀行設立の際には相談役を務め、1892年には東京貯蓄銀行(現・りそな銀行)を設立しました。
その他に渋沢は日本勧業銀行や日本興業銀行、北海道拓殖銀行等の経営に関わります。これらの銀行は企業の融資に貢献し、様々な企業を興す事に繋がりました。
500以上の企業の創設に関与する
渋沢は銀行の発展だけではなく、企業の創設に関与しています。その数は実に500を超え、現在にも繋がる企業も多いのです。
例を挙げるだけでも
- 東京瓦斯
- 東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)
- 麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)
- 秩父セメント(現・太平洋セメント)
- 王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)
- 田園都市(現・東急) 等があります。
渋沢が立ち上げた企業は製造業やインフラ等、多岐にわたります。これらの企業は日本の近代化に大きな貢献を果たすのです。
大学の創設や援助!教育分野にも貢献する
更に渋沢は教育面でも功績を残しました。1875年には一橋大学の前身である商法講習所を設立。1900年には東京経済大学の前身となる大倉商業学校の創立委員を務めました。
更に女子への高等教育の必要性も早くから訴えています。1887年には女子教育奨励会を設立し、これは後に東京女学館となりました。
国家を担うは人材であるからこそ、教育の拡充は国家の発展に重要です。渋沢はその事をよく知っていたのですね。
渋沢栄一のエピソード・逸話
2度もノーベル賞候補に選ばれる
渋沢は1926年と1927年にノーベル平和賞候補に選ばれています。当時は戦争には至らないものの、日本とアメリカの仲が少しずつ悪くなっている頃でした。
渋沢は日本とアメリカの友好を修復する為に、日本国際児童親善会の立ち上げ等を行なっていたのです。結局ノーベル平和賞に選ばれる事はなかったものの、その功績は日米の有効にまで発展していたのですね。
渋沢栄一の名言
四十、五十は洟垂れ(はなたれ)小僧
六十、七十は働き盛り
九十になって迎えが来たら
百まで待てと追い返せ
渋沢の名言として有名です。渋沢は70歳を超えても精力的に働きました。年齢的には隠居しても良い年です。それでも渋沢は70歳を働き盛りと言いました。
昨今では少子高齢社会が問題となっています。しかし長く生きるという事は経験が豊富という事です。いくつになっても情熱を衰えさせず、働き盛りで生きたいものですね。
金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。
現在でもお金を儲ける事は「卑しい」と考えられているのは確かです。渋沢はそれを否定しました。渋沢が否定したのは「品位のないお金儲け」です。お金儲けに熱中するあまり、詐欺やブラック企業等の法律に触れた行いが生まれます。
渋沢のように品位を持ち、誰かに還元出来るようなお金儲けをしていきたいものですね。
渋沢栄一が新一万札の顔になる理由とは?
渋沢は2024年度から発行される新たな紙幣の肖像に選ばれました。ちなみに渋沢栄一は1万円の肖像ですが、津田梅子は5千円、北里柴三郎が千円の肖像に選ばれています。
お札に選ばれる理由として以下のものが挙げられます。
・日本国民が世界に誇れる人物
・教科書に載っている等、知名度が高い
・精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物(偽札防止の為)
渋沢は1963年にも一度紙幣の候補に選ばれていましたが、その時は伊藤博文に敗れています。遡れば1902年に日本政府の監督下の下で、朝鮮銀行から渋沢が描かれた十円札された事もありました。
これ程の功績を持つ渋沢がお札に選ばれたのはある意味で必然です。新たな紙幣を使うのが楽しみですね。
渋沢栄一の家族や子孫
渋沢栄一の妻
千代(1841年〜1882年)
渋沢は1858年に千代と結婚し、二男三女をもうけます(長男と三女は夭折)。千代は渋沢の従妹で幼少期から顔馴染みでした。1882年にコレラに罹り、42歳の若さで亡くなります。
兼子(1852年〜1934年)
その後渋沢は1883年に川越の豪商・伊藤八兵衛の次女・伊藤兼子と再婚しています。兼子とは三男一女の子をもうけました。
その他に渋沢は3人の妾がいました。当時では妾がいる事はある意味ステータスであり、特に問題ありません。
渋沢栄一の子ども・孫
渋沢は正妻との間に9人の子どもが生まれており、7人が成人となります。その他、妾の子として認められたのは4人です。彼らの多くは渋沢の事業を引き継ぐ等して活躍しました。
篤二 (1872年〜1932年)
渋沢の次男ですが長男は夭折し、嫡男として育てられます。ただ後に嫡男の座を自分の長男である渋沢敬三に譲ります。澁澤倉庫会長を務めていたものの、感性豊かな芸術家肌の人物で嫡男の気質ではなかったと渋沢が判断したとされます。
渋沢敬三(1896年〜1963年)
篤二の長男で、篤二の代わりに嫡男の座を譲られました。財界人・民俗学者・第16代日本銀行総裁などを歴任しています。
武之助(1886年〜1946年)
渋沢の三男で、石川島飛行機製作所2代目社長を務めていました。
正雄(1888年〜1942年)
渋沢の四男で、日本製鐵副社長や石川島飛行機製作所初代社長などを歴任しています。
渋沢栄一の子孫
渋沢の子孫は現在でも第一線で活躍しています。現在活躍しているのは渋沢の曾孫や玄孫の世代です。おそらく血筋を引く人物は100人以上。とても書ききれないので、ごく一部を紹介しますね。
渋澤 健
血筋としては篤二→智雄(篤二の三男)→芳昭(智雄の長男)→健となり、渋沢栄一から数えて玄孫になります。シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役等、コモンズ投信株式会社会長などを務めています。
鮫島 弘子
エチオピアに在住する起業家・デザイナーです。血筋としては四男・正男の次女・純子の孫にあたり、渋沢栄一からみれば玄孫になります。
弘子氏は世界最高峰の「羊皮エチオピアシープスキン」を使用した製品を開発し、日本としては3社目となる現地法人をエチオピアに設立しました。現在は日本とエチオピアを行き来しながら、エチオピアの魅力を世界に発信しています。
澁澤 侑哉
端正な顔立ちと180cmを超える長身が話題の男性ファッションモデルです。アメリカ海兵と外資系企業に勤める日本人女性のハーフです。厳密に言えば渋沢栄一の従兄弟の血筋であり、栄一の子孫ではありません。
とはいえ渋沢一族という点に間違いはなく、お年玉で1千万円を貰った等の仰天エピソードもあります。これからか楽しみなモデルです。
渋沢栄一にまつわる都市伝説・武勇伝
実はフリーメイソンだった
フリーメイソンとは世界最古かつ最大の友愛組織です。謎も多い組織であり、秘密結社として世界を裏で牛耳っている等の都市伝説も囁かれています。
フリーメイソンだった日本人として以下の人達が挙げられます。
・坂本龍馬
・後藤新平
・鳩山一郎
渋沢栄一はフリーメイソンだったという確固たる証拠はありません。ちなみに日本のお札に選ばれる人は、フリーメイソンと深い繋がりがあったとされています。渋沢はフリーメイソンと深い繋がりがあったラストチャイルド家と親しかったそうです。
渋沢が様々な企業を興した背景にはフリーメイソンが関与しているのかもしれないのです。
渋沢栄一のゆかりの地
渋沢栄一記念館
渋沢栄一の生家から500m程の距離にある記念館です。渋沢の生涯や事績に関する資料を展示する他、定期的にイベントも開催されています。
住所:埼玉県深谷市下手計1204
渋沢史料館
渋沢栄一の生涯と事績を学べる資料館です。展示室がある本館の他、大正期に建てられた渋沢の晩香廬等も見所です。晩香廬は国の重要文化財にも指定されています。
住所:東京都北区西ヶ原2-16-1
富岡製糸場
日本初の大規模な官営製糸工場として有名な富岡製糸場。渋沢は富岡製糸場の設置主任として、設立に関与しました。1870年に設置され、日本の近代化に貢献しています。
渋沢は豪農の生まれとして、養蚕や生糸に関する知識が豊富でした。更にヨーロッパ留学を通じて経営論などのノウハウを学んでいます。渋沢が設置主任に選ばれたのも納得ですよね。
住所:群馬県富岡市富岡1番地1
渋沢栄一の関連人物
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎は幕末・明治にかけて活躍した実業家で、三菱財閥の創業者となった人物です。岩崎は徹底した独裁主義をもとに「郵便汽船三菱会社」を立ち上げて海運業界を圧倒していきました。
儒教に則った道徳をもとに企業を興す渋沢は、岩崎のやり方に危機感を覚えました。渋沢は三菱に対抗する形で1882年に「共同運輸会社」という海運会社を立ち上げます。ここから両者の熾烈な争いが始まったのです。
渋沢は岩崎率いる郵便汽船三菱会社の独占を阻止する為に、顧客獲得をめぐり値下げを行い、熾烈な争いを繰り広げました。結果的に両社は経営危機になる程に疲弊したのです。
やがて岩崎は1885年に病没。郵便汽船三菱会社は岩崎弥太郎の弟、弥之助に引き継がれました。やがて渋沢と弥之助は海運業の未来の為、手を握る事を決め10月には両社の資産を合同した「日本郵船会社」が設立されています。
渋沢と岩崎。2人の思想は相反するものの2人が興した会社は日本の近代化に大きく貢献した事は間違いありません。
福沢諭吉
福沢諭吉は皆さんも知っている通り1万円札の肖像に選ばれています。2人は同じ世代の人物(渋沢栄一が1840年3月16日‐1931年11月11日で福沢諭吉が1835年1月10日-1901年2月3日)ですが、そこまで関係性があったわけではありません。
ただ福沢は渋沢を深く尊敬していた事が知られています。1893年に福沢が発行する新聞「時事新報」において、「一覚宿昔青雲夢」という社説が掲載されます。
それは福沢が渋沢をいかに尊敬してあるかを現したもので、文字数は実に1750文字。福沢は「渋沢栄一の生き方はもっとも模範とすべきもの」と論じています。渋沢を深く敬愛していた福沢。紙幣の肖像もまた渋沢へと移り変わるのです。
津田梅子
津田は渋沢と同じく新たな紙幣に選ばれた人物です。津田は女子教育の先駆者として津田塾大学を創設しました。2人が明確に親しい仲だったかは分からないものの、渋沢もまた女子教育の大切さに早くから気づいていました。
渋沢は前述した通り1887年に女子教育奨励会を設立しています。この奨励会には伊藤博文も関与しており、伊藤は後に津田に様々な支援をしました。渋沢の理想は津田塾大学の創設にも影響を与えたと言えますね。
渋沢栄一の関連作品
渋沢に関連する書籍や動画はたくさんあります。今回はその中のおススメなものを紹介していきます。
おすすめ書籍・本・漫画
現代語訳 論語と算盤
渋沢が唱える「儒教(論語)と経済(算盤)の両立」である「道徳経済合一説」を現代語訳したものです。長い年月が経過しても、渋沢の経営論は色褪せません。
私達はどのように働き、どのように生きるべきか。その答えがこの本を通じて見つかるかもしれません。
学習まんが 世界の伝記NEXT 渋沢栄一
渋沢の生涯を漫画にした一冊。渋沢の功績が分かりやすくまとめられています。本書は詳しく学ぶというよりは、渋沢がどんな人かを知るきっかけになる本でしょう。
徳川慶喜と渋沢栄一―最後の将軍に仕えた最後の幕臣
渋沢が慶喜に仕えた事はこの記事で解説しましたが、本書は渋沢と慶喜の「その後」について詳しくまとめられています。渋沢は慶喜が晩年まで交流を持った数少ない旧幕臣でした。そして渋沢も慶喜を終生尊敬し、名誉回復の為の行動を続けています。
本書では渋沢や慶喜の違った一面が垣間見れるかもしれません。
おすすめの動画
渋沢栄一の生涯をオリエンタルラジオ・中田敦彦が解説する動画です。このチャンネルでは他にも様々な人物や時代背景について解説しています。ぜひ視聴してみてくださいね。
おすすめのドラマ
青天を衝け
2021年放送の渋沢栄一を主人公にした大河ドラマです。渋沢を演じるのは吉沢亮。あまり知られる事のなかった渋沢の生涯を余す事なく表現してくれる事でしょう。
2021年の時点では当然DVDは発売されていません。ただ完全読本が発売されるので、そちらで内容を補完するのも良いでしょう。
渋沢栄一についてのまとめ
今回は渋沢栄一の生涯について解説しました。日本資本の父として、銀行や様々な企業の設立に関与した渋沢栄一。彼の功績なくしては日本の近代化は達成できませんでした。
大河ドラマの主人公に抜擢されたり、新たな紙幣の肖像に採用されたのも納得と言えるのではないでしょうか。今回の記事を通じて、渋沢栄一に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/04/28/126083/3
https://rekisiru.com/3156
https://www.touken-world.jp/tips/55755/
https://sportsmania1.com/yukichi-eiichi-kankei/
https://colorfl.net/shibusawaeichi-shison/#i-8
渋沢栄一 「日本近代資本主義の父」の生涯 今井博昭