今川義元は駿河国や遠江国を支配した戦国大名で、今川家の最盛期を築いた人物です。東海道の広大な地域を支配し、尾張国に侵攻したものの、桶狭間の戦いで織田信長に敗れてしまいます。
今川義元は「織田信長に敗れた」という印象が強い事から、無能な人物と思われがちです。ただ研究が進むにつれ、実は先駆的な改革を数多く行った人物である事が判明しています。今回は今川義元の人物像や死因について解説していきます。
目次
今川義元とは?
今川義元は天文5年(1536年)から今川氏第11代当主を務めた人物です。武田家や北条家と結びつきを強めるなど、優れた外交手腕を持ち三河地方で勢力を拡大しました、永禄3年(1560年)に尾張国に侵攻し、更なる勢力の拡大を画策するものの、桶狭間の戦いで尾張国を治める織田信長に敗北して討ち死にしました。
氏名 | 今川義元 |
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通称・あだ名 | 海道一の弓取り |
出生日 | 永正16年(1519年) |
出生地 | 駿河国(現在の静岡県静岡市) |
死没日 | 永禄3年(1560年)5月19日 |
死没地(亡くなった場所) | 尾張国知多郡桶狭間(現在の名古屋市と豊明市) |
血液型 | 不明 |
職業 | 戦国大名・守護大名 |
身長 | 不明 |
体重 | 不明 |
配偶者 | 定恵院 |
座右の銘 | 昨日なし 明日またしらぬ 人はただ 今日のうちこそ 命なりけれ |
今川義元の人生年表・生涯
今川義元の人生年表
年 | 出来事 |
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永正16年(1519年) | 今川義元誕生 |
天文5年(1536年) | 花倉の乱に勝利して家督を相続 |
天文6年(1537年) | 武田氏と同盟を結ぶが、北条軍と対立する |
天文11年(1542年) | 第一次小豆坂の戦いで織田信秀軍に敗北 |
天文14年(1545年) | 第二次河東一乱で山内上杉憲政と同盟を結ぶ |
天文17年(1548年) | 第二次小豆坂の戦いで織田信秀軍に大勝 |
天文20年(1551年) | 織田信秀死去 |
天文22年(1553年) | 亡父の定めた今川仮名目録に追加法を加える |
天文23年(1554年) | 甲相駿三国同盟を結成 |
永禄元年(1558年) | 氏真に家督を譲り隠居する |
永禄3年(1560年) | 桶狭間の戦いで死去 |
今川義元の生涯①
今川義元は永正16年(1519年)、今川氏親の三男(四男説あり)として誕生します。ただ後継ぎには長兄の氏輝、次兄の彦五郎がいた為、4歳で仏門に出されています。ただ武将の子が寺に入ることは珍しくなく、兄弟間の争いを避ける、学問を身につけるなどの目的がありました。
ところが天文5年(1536年)に長兄の氏輝が急死。なぜか同日に彦五郎も亡くなっています。当時の今川義元は栴岳承芳という名前で仏門に入っていましたが、今川氏親正室の寿桂尼や太原雪斎らの後押しもあり、還俗して今川義元と名乗りました。
だが今川家の有力被官・福島氏が今川義元の家督相続に反対。今川義元の兄・玄広恵探を擁立してそれに対抗しました。このお家騒動は花倉の乱と呼ばれ、今川義元が後北条氏から支援を得る事で勝利。玄広恵探は自害し、今川義元は正式に今川家の当主となったのです。
今川義元の生涯②
今川義元は天文6年(1537年)2月に武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結びます。武田氏は父の代から父の代まで抗争状態にあったものの、今川義元はそれに終止符を打ったのです。
ただ今川家は後北条氏とも同盟を結んでおり、一連の行動は後北条氏の北条氏綱を怒らせる事になります。当時の今川家では今川義元が当主になったばかりで内部対立は燻っていました。更に堀越氏・井伊氏などの反対勢力も今川義元を裏切った為、河東地方は長らく北条家に占領されてしまいます。
更に天文9年(1540年)には尾張国の織田信秀が今川義元の支配下にあった三河国に侵攻を開始。今川義元は三河の諸侯軍と結束して抵抗するも、天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで敗北しています(創作説あり)。
長らく苦境の続いた今川義元でしたが、天文10年(1541年)には長年今川義元を苦しめていた北条氏綱が死去。天文14年(1545年)には山内上杉憲政と同盟を結び、第二次河東一乱で北条氏綱を挟み撃ちにする事に成功します。
今川義元は同盟を結んでいた武田晴信(武田信玄)に援軍を派遣してもらい、河東地方を占領。この頃に北条氏綱は上杉憲政・上杉朝定、更に古河公方・足利晴氏らに関東地方を侵攻されていたのです。北条氏綱は河東地方と関東地方の進軍に合うこの状況を打開する為、武田晴信に仲介を頼みます。
今川義元は「河東の地は今川家に返す事」という条件で和睦を結ぶ事に同意。河東地方の奪回に成功するのです。更に三河地方も織田家の妨害を受けつつも、西三河の松平広忠(徳川家康の父)を支配下に置くなど、着実に勢力範囲を拡大させていきました。
今川義元の生涯③
天文17年(1548年)には今川義元の勢力を削ぎ落とす為、織田信秀が三河国に侵攻してくるものの、今川義元は第二次小豆坂の戦いでこれに勝利。更に天文18年(1549年)に松平広忠が死去すると、事実上松平家の所領を領有し、西三河は今川義元の手中に収めました。天文20年(1551年)に長年のライバルであった織田信秀が死去すると、尾張への侵攻へ着々と準備を開始したのでした。
領地における今川義元の影響力が強まっている事に伴い、天文22年(1553年)には今川仮名目録に追加法を加えています。これは影響力の落ちた室町幕府に代わり、今川義元の影響力を誇示する目的もあったとされます。
天文23年(1554年)には北条氏康の娘(早川殿)と嫡男・今川氏真の縁談をまとめる事に成功。武田氏・北条氏双方と結びつきを強めて、甲相駿三国同盟を結成しています。
卓越した手腕で領地を広げる今川義元でしたが、三河では織田氏との激しい争いは続いていました。永禄元年(1558年)に今川義元は隠居すると、影の今川家の支配者として三河の鎮圧および経営に着手。永禄3年(1560年)5月には尾張国への侵攻を開始。いわゆる桶狭間の戦いが勃発したのでした。
今川義元の生涯④
永禄3年(1560年)5月、今川義元は2万の軍勢を率いて尾張国へ侵攻を開始。大高周辺の織田方諸砦を次々と落としていきます。この時点で尾張国の当主・織田信長は3000の軍勢しか集丸事は出来ず、今川義元が勝つだろうと周囲は考えていました。
ところが織田信長は今川義元に奇襲を開始。この奇襲は今川義元軍が休息を取り油断していた時に行われたもので、更に雨が降っていた為にその奇襲に気づかなかったともいわれます。この桶狭間の戦いで今川義元は300騎ほどの親衛隊と織田軍に対抗するものの、最後は織田家の家臣・毛利新介に討ち取られてしまいます、この時の年齢は42歳でした。
今川義元の死因と最期の言葉
桶狭間の戦いで討ち死にする
今川義元の死因は桶狭間の戦いで織田軍に討ち取られた事です。今川義元はもともと御輿に乗り戦地を移動していましたが、織田軍の奇襲で神輿を乗り捨てて300騎の親衛隊に護衛されながら騎馬で退却を図りました。ところが度重なる織田軍の攻撃で兵は次々と倒れ、最終的に織田軍の主力に追いつかれてしまうのです。
今川義元は服部一忠に攻撃を受けるものの、逆に膝を斬りつけて返り討ちにします。ただ他勢に無勢の状況は変わらず、最後には毛利新介によって組み伏せられて、首を斬られてしまいました。ただ今川義元は毛利新介の指を噛み切るなど、最後まで抵抗を続けました。戦いの最中の死であり、今川義元の最期の言葉は伝わっていません。
いずれにせよ総大将が討ち取られた事で今川義元軍の戦意は喪失し、桶狭間の戦いは織田信長の勝利に終わりました。
今川義元の首の行方と今川義元の死の影響
今川義元の首は、義元の重臣・岡部元信の交渉で今川家に返還される事になりました。ちなみに動体の腐敗は予想以上に早く、地元駿府に戻らずに三河国宝飯郡に埋葬されました。
今川家の家督は嫡男の今川氏真が継ぐものの、混乱に乗じて松平元康が西三河の地で独立を果たします。更に三河でも傘下にあった戸田氏らが離反するなどして今川家の勢力は後退。今川
氏真はまだ若かった事から事態を収集できませんでした。
そした9年後の永禄12年(1569年)に今川氏真は徳川家康と武田信玄により、駿河や遠江を追われる事になり、ここに「戦国大名としての今川家」は消滅するのです。今川家の没落をみると、今川義元の戦国大名としての資質が優れていた事がよく分かりますね。
今川義元の功績と偉業
今川義元は織田信長に敗れた事から「愚将」というイメージが定着していますが、実は優れた為政者である事が分かっています。そんな今川義元の功績や偉業をほんの一部だけ解説していきます。
他大名と積極的に同盟を結ぶ
今川義元が今川家の家督を相続した頃、今川家は甲斐国の武田家と激しい勢力争いをしていました。今川義元は武田家との関係改善に取り組む事に尽力し、武田信虎の娘・定恵院と政略結婚に漕ぎ着け、武田家と甲駿同盟を結ぶ事に成功します。
北条家と対立した時には山内上杉憲政と同盟を結び、河東に侵攻する案を考えました。この争いは第二次河東一乱と呼ばれ、最終的に今川義元は北条家から奪われた河東の地を返還させる事に成功。後に今川義元は嫡子である今川氏真に、北条氏康の娘を縁組させて武田氏・北条氏と同盟を結び、最終的に武田家、北条家と良好な関係を築きます。
今川義元は敵対する大名と積極的同盟を結び、勢力を拡大させる技量に長けていました。最盛期の今川家の領地は100万石おもいわれ、日本有数の戦国大名でした。最終的に尾張国へ侵攻した時に桶狭間の戦いで敗れてしまったものの、仮に尾張国の侵攻に成功していれば、織田家とも同盟を結ぶ等して、更なる勢力の拡大を図っていたのかもしれません。
内政で優れた功績を残す
今川義元は天文22年(1553年)に父の定めた今川仮名目録に新たな法を追加しています。その内容は非常に先駆的で、寄子の扶養に関する保護などの現在の社会保障につながる法案も示されていました。この法案は室町幕府による体制を否認し、今川義元が守護大名から戦国大名に移行する事を宣言したものでした。
更に今川義元は京都の文化を積極的に駿府の城下町に取り入れています。当時は京都から公家が各地に流れる事も多かったのですが、今川義元はそれらの公家を手厚くもてなしました。駿河で生まれた文化は「今川文化」といわれ、華やかな京風文化が華開いたのでした。今川義元は外交手腕に優れるだけでなく、為政者としても優れた手腕を発揮していたのです。
今川義元の性格と人物像エピソード
公家的な素養を持っていた
今川義元は漫画やゲームなどで「公家風の姿」で描かれる事も多い人物です。創作の可能性はあるものの、今川義元は公家のようにお歯黒を塗り、置眉、薄化粧をしていたともされます。これらのイメージから今川義元は軟弱なイメージを持たれがちですが、それは現在のイメージが先行しているからです。
武将が薄化粧をして戦地に赴くのは「嗜み」の一つという説もあり、当時としては珍しい事ではありません。今川家は足利家から分家した由緒正しい家柄で、御輿に乗る事を許されていました。
桶狭間の戦いで御輿に乗っていたのは馬に乗れなかったのではなく、織田氏との家柄・立場の違いを尾張国の人々に見せつける目的がありました。今川義元の公家的な姿は軟弱なのではなく、優れた素養を持っていた事を表しているのです。
今川義元の逸話と凄さ
和歌が大好きだった
今川義元は和歌も嗜んでおり、駿府では月に一度歌会が行われていました。このように和歌を大切にする戦国大名は全国的に珍しく、今川義元が公家的な素養を持つ性格である照明にも借ります。
ただ和歌のレベルはそれ程高くなく、当時の和歌の指導者からは酷評されています。公家的な素養を持ちつつも、あくまで今川義元は守護大名であり戦国大名。公家に対する憧れも強かったのかもしれませんね。
凄い血筋の家柄だった
今川家は河内源氏の流れを汲む足利氏御一家や吉良家の分家にあたります。足利将軍家の血筋が絶えた時、新たに将軍を擁立する際には吉良家から選ぶ事が決められており、今川家はその吉良家から分家した家柄なのです。斯波家や畠山家など、足利一門の家柄は数あれど、今川家は別格でした。
ちなみに今川家も駿河今川家という嫡流、遠江今川家と肥前今川家があり、今川義元の家柄は当然ながら駿河今川家。今川義元らこの時代において将軍家になれる程の血筋を持っていたのです。
今川義元の家紋
ちなみに今川家の家紋は2つあります。一つ目では丸に二つ引で、足利将軍家が使用していたものと同じです。これは今川家が足利将軍家に準ずる格式である事を表しています。
更にもう2つは赤鳥紋といい、女性が使う櫛のようなデザインです。これは今川家の初代当主・今川範国が1337年に駿府の神社を参拝下時に、「赤い鳥と共に戦うべし」と神託を受けた事がきっかけとされます。
どちらの家紋も今川義元が家柄や先祖に強い思いを持っていた事がわかりますね。
今川義元の名言
昨日なし 明日またしらぬ 人はただ 今日のうちこそ 命なりけれ
今川義元が自らの人生観を詠んだ和歌です。現代語訳としては「昨日はもう戻らない。明日の事は分からない。人はただ今日という1日に命をつくすべき」というところでしょうか。明日の事も分からない戦国時代。そんな日々を今川義元は全力で生きていた事が分かりますね。
第一になすべき文武を2つながらおざなりにしている これを改めねば国は滅びるであろう
嫡男・今川氏真に伝えた格言です。現代語訳だと「(氏真は)第一するべき武道と教養をおろそかにしている。この悪習を改めないと国は滅びる」という意味になります。今川義元は武芸はもちろん、蹴鞠や和歌にも通じていたのは先ほど述べた通りです。
今川義元亡き後に家督を継いだ氏真ですが、今川義元の言う通り国をまとめる事が出来ず、あっという間に大名としての今川家は滅んでしまいます。今川義元は文武両道の大切さをよく知っていたのです。
今川義元の家系図・子孫
今川義元の家族
今川義元の父親である今川氏親は今川氏9代目の当主でした。氏親には男兄弟がいなかった為、今川氏の一族を「御一家」として重用するなどして、今川家の勢力を拡大させていきます。
幸い今川氏親は氏輝、彦五郎、玄広恵探、義元と男児に恵まれ、後継者に困る事はありませんでした。ただ氏輝、彦五郎が相次いで亡くなる事で今川家でも家督争いが勃発するのです。
やがて今川義元は武田信虎の娘である定恵院と結婚。その他にも何人かの側室がいたとされます。ただ天文19年(1550年)に定恵院は32歳の若さで亡くなっています。今川義元はこの定恵院や側室との間に今川氏真、一月長得などの男子や嶺松院隆福院などの女子が生まれました。
今川義元亡き後に今川家を継いだのは今川氏真でしたが、前述した通り、今川家は徐々に勢力を後退。桶狭間の戦いから僅か8年で「戦国大名としての今川家」は消失したのでした。
今川義元の子孫は今でも健在?
今川義元の子孫は現在でも存命です。戦国大名としての今川家は消失したものの、嫡男である今川氏真は徳川家康の庇護を受ける形で戦国時代を生き延びました。今川氏真は慶長19年(1615年)まで存命であり、500石の知行地が安堵されました。
ちなみに氏真は4人の男児にめぐまれています。今川家宗家は1887年(明治20年)に絶家となるものの、その他に分家した品川家などは現在も続いているのです。
今川義元のゆかりの地
東向寺
今川義元のお墓や供養等は東京や愛知県を中心に全国で10カ所ほどあります。その中で実際に埋葬されたのが愛知県西尾市にある東向寺と、愛知県豊川市にある大聖寺です。
桶狭間の戦いで今川義元の首が討ち取られた時、首は織田軍が持ち帰ってしまいます。その首を交渉の末に取り戻したのが今川義元の忠臣である岡部元信でした。しかし遺体の腐敗の進行は早く、今川義元の領地である駿府に戻る前に首は埋葬される事が決まります。
東向寺は今川義元の叔父・徳順上人が住職を務めていました。その縁もあり首は埋葬されたのです。今川義元の首塚は他のお墓とは少し違う場所にあるものの、急遽作られたものに変わりはなく、大大名と呼ぶにはあまりにも小さなものです。ちなみに首塚の近くには数基のお墓があり、これは桶狭間の戦いで戦死した今川義元の家臣だと言われています。
住所 西尾市駒場町榎木島
大聖寺
もう一つの大聖寺は今川義元の胴体が埋葬されています。桶狭間の戦いで今川義元の首は持ち去られたものの、胴体は戦地に残されました。家臣達はその胴体を散布まで持ち帰ろうとしたものの、こちらも腐敗が進み、持ち帰る事は出来ませんでした。
その為、家臣達は未だ今川義元の勢力下にある東三河の大聖寺に胴体を埋葬する事に決めたのです。後に嫡男の氏真がこの地を訪れ、今川義元の胴塚は整備されたのでした。今でも大聖寺では定期的に供養祭が行われており、今川義元は今でも地元で愛されているといえるのです。
住所 豊川市牛久保町岸組66
今川義元ゆかりの城はないの?
戦国大名のゆかりの地といえばお城が頭に浮かぶと思います。ただ今川義元ゆかりの城については現在ではその外観や詳細を知る事は出来ません。
今川義元は駿府国に城を構えていたとされます。ただ今川義元亡き後に駿河国が武田信玄に攻め落とされた時、今川氏の居城は焼失。更にその跡地に徳川家康が駿河城を建てた為、今川義元の居城は完全に姿を消してしまいました。
近年の発掘調査で駿府城の敷地内で今川期のものとされる遺構や遺物が発見されたものの、全貌は未だ掴めていません。新たな調査結果を待ちたいところですね。
今川義元の関連人物
織田信長
織田信長は今川義元と同じく戦国大名の一人です。室町幕府を滅ぼし、畿内を平定するなどして、日本の統一を強力に押し進めました。織田信長が兄弟間の争いに打ち勝ち、尾張国を統一したのは永禄2年(1559年)の事。それは今川義元がその周辺一帯の大大名として君臨している時でした。
織田信長は翌年の桶狭間の戦いで今川義元に勝利し、勢力を拡大させていきます。いわば今川義元は織田信長にとって最初に超えるべき壁だったのです。
ちなみに桶狭間の戦いの経過について、実は詳しい事は分かっていません。織田信長が奇襲をしかけた事は定説になっているものの、「迂回路を利用した」「敗北を覚悟して正面から奇襲をしかけた」など様々な説があります。更なる研究結果を待ちたいところですね。
今川義元の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
戦国人物伝 今川義元
「東海道一の弓取り」と詠われた今川義元の漫画伝記です。今川義元が当時開かれた状況や、彼が行った政策がよく分かります。子どもでも大人でも楽しめる内容になっているので、親子で読みたい作品ですね。
太原雪斎と今川義元 東海に覇を唱えた軍師と名将
今川義元と、今川義元を支えた軍事・太原雪斎の関係性に焦点を当てた歴史小説です。太原雪斎は外交面、内政面、様々な場面で今川義元を支えた人物であり、彼が存命なら今川義元は桶狭間の戦いで戦死しなかったとも言われています。
知る人はほとんどいない人物ですが、そういう人達がいた事で歴史は成り立っています。そんな気付きを与えてくれる小説と言えるでしょう。
今川氏滅亡
今川家のルーツに迫ると共に、今川義元と今川氏真の一連の政策に主眼を置いた一冊です。今川義元が没した後も今川家自体は氏真を当主にする事でその後も続きました。なぜ戦国大名としての今川家が滅亡したのか、その理由が分かります。より深く今川義元について学びたい人におすすめの一冊です。
おすすめの動画
おすすめドラマ
今のところ今川義元を主人公にした大河ドラマや映画はありません。やはり公家的なイメージや桶狭間の戦いで敗れた事で、主役にはなりにくいのかもしれません。いつか今川義元を主人公にした映画やドラマが制作されると良いですね。
麒麟がくる
明智光秀を主人公にした2020年の大の河ドラマであり、今川義元を演じたのは片岡愛之助。「東海最強の戦国大名」と謳われ、その風格はまさしく織田信長が最初に超えるべき壁でした。本作品は今川義元の従来のイメージを払拭したものと言えるでしょう。
おんな城主 井伊直虎
2017年に放送された大河ドラマです。本作の今川義元は春風亭昇太が演じ、ほとんど喋らず無表情という不気味さで話題になりました。ただ本作品では桶狭間の戦いは描かれず、今川義元はナレーションでその最期が語られたのみ。ある意味で不遇な作品と言えるでしょう。
ちなみに2023年の大河ドラマの主人公は徳川家康であり、当然ながら今川義元も登場します。今川義元を演じるのは狂言方和泉流の能楽師野村萬斎であり、公家的な素養を持つ今川義元にはぴったりの人物と言えるでしょう。
まとめ
今回は今川義元の生涯や人物像について解説しました。今川義元は桶狭間の戦いの戦死により「無能」「愚将」というイメージがあるものの、実際には外交にも内政にも優れた才能を発揮した人物である事が分かります。実際のところ桶狭間の戦いもどちらが勝利してもおかしくはなかったでしょう。
仮に今川義元が勝利していれば日本史は確実に変わっていたでしょうし、徳川家康が台頭する事もありませんでした。歴史にifはないものの、今川義元が更に勢力を拡大した未来も見てみたかったものです。今回の記事を通じて今川義元に関心を持っていただければ幸いです。
参考文献
小和田哲男 今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く