【江戸無血開城の立役者】勝海舟とはどんな人?生涯・名言・偉業も解説

山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」として名高い勝海舟は、江戸城の無血開城や日本海軍設立への尽力などで知られています。咸臨丸に乗って大西洋を横断し、自分の目でアメリカを見た海舟は、幕政末期の日本が近代国家に生まれ変わるのに大きく貢献しました。

 

海舟は幕臣という枠にとらわれず、世界の中の日本という視点を持っていました。その時代を見る目の確かさは、坂本龍馬西郷隆盛らにも多大な影響を与えています。

 

本記事では、海舟の人生年表や人物エピソード、名言などから、幕府の終焉から新しい日本の誕生を見届けた海舟の人物像に迫ります。

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勝海舟とは?

出典:Wikipedia

 

勝海舟は貧しい幕臣の家に生まれ、苦労しながら蘭学と西洋式兵術を学びました。

黒船来航によって幕府が大きく混乱する中、知識と先見性を評価され、幕府の役人に抜擢されました。蘭学と西洋式兵術を学んだ海舟は、海防の重要性に早くから着目していました。長崎海軍伝習所で未来の海軍士官を育て、日本の海軍創設に向け尽力したほか、軍艦「咸臨丸」の指揮者として大西洋横断を成し遂げました。

大政奉還後、江戸城が官軍による攻撃の危機に瀕したとき、海舟は西郷隆盛と会談を行って江戸城の無血開城を実現させました。日本が幕政から明治新政府へと比較的スムーズに移行できたのは、海舟の功績によるところが大きいといってよいでしょう。

生まれ

勝海舟は1823(文政6)年、江戸の本所亀沢町(現・墨田区亀沢)で生まれました。父の小吉は旗本の身分でしたが、役職に就くことができなかったため収入は少なく、海舟は貧しい少年時代を送りました。

性格

海舟は身分の上下や社会的な立場にとらわれず、多様な人々と交流を持ちました。後年、坂本龍馬西郷隆盛らと立場を超えた信頼関係を築けたのも、率直でおおらかな海舟の性格によるところが大きいといえるでしょう。

生粋の江戸っ子だった海舟はふだん、江戸弁を使って話していたと考えられています。

海舟の談話を記録した『氷川清話』などからも、その闊達なべらんめえ口調の語り口をうかがい知ることができます。

幼名

海舟は幼名を麟太郎といい、大人になってからは義邦、安芳、安房(あわ)と名乗り、号として海舟を使いました

号の由来は、蘭学者でのちに妹の婿になる佐久間象山の住居に掛けてあった「海舟書屋」という額です。海舟は象山宅を訪問した際にこの額を見て「海舟」という言葉が気に入り、以後自分の号として使うようになりました。

死因

海舟は1899年、脳溢血のため77歳で亡くなりました。最期の言葉は「これでおしまい」でした。

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勝海舟の人生年表

出典:Wikipedia

 

1823年1月30日江戸本所亀沢町で生まれる。
1829年将軍家斉の孫の遊び相手として江戸城に上がる
1831年城勤めを退く。野良犬に噛まれて大怪我を負う
1838年島田虎之介の剣術道場に入門する
1843年直心影流の免許皆伝を受ける。永井青崖の門下で蘭学の勉強を始める
1848年蘭和辞書『ヅーフ・ハルマ』58巻を筆写する
1848年赤坂田町に蘭学塾を開く
1853年幕府に『海防意見書』を提出する
1853年下田取締掛手付院任命される。蕃書翻訳御用、次いで長崎海軍伝習生に任じられる
1860年咸臨丸でアメリカ訪問
1862年軍艦奉行並に任じられる。坂本龍馬に会う
1864年西郷隆盛に会う。すべての役職を罷免される
1866年軍艦奉行に復帰する。長州征伐の終戦交渉の任にあたる
1868年陸軍総裁に任じられる。江戸の無血開城を実現する。駿府(静岡)へ移住する
1872年明治政府の海軍大輔に任じられる
1873年参議兼海軍卿に任じられる
1887年伯爵に叙せられる
1888年枢密顧問官に任じられる
1895年日清戦争、朝鮮問題について意見書を提出する
1899年脳溢血のため死去

 

勝海舟の人物エピソード

出典:Wikipedia

犬に噛まれたことも!苦労続きの少年時代

父の小吉が無役だったため、海舟は非常に貧しい子供時代を送りました。そんな海舟が一度だけ、出世のチャンスをつかんだことがあります。

 

海舟が7歳のとき、江戸城大奥で働いている親戚の女性に会いに行った際のこと。第11代将軍の家斉が海舟を気に入り、孫の初之丞の遊び相手に抜擢しました。初之丞は御三卿の一つである一橋徳川家の世継ぎで、勝家ではこれで海舟の出世の道が開けると喜びました。

 

海舟は初之丞の遊び相手を務め、大奥の規定により9歳でお城を下がりました。実家に戻って勉強を習いに行き始めた海舟は、先生の家からの帰り道に野良犬に襲われてしまいます。下腹部をひどく噛まれた海舟は医者も見放すほどの高熱に苦しみ、命も危ぶまれる状態でした。父の小吉はそんな海舟を必死で看病し、毎日金比羅神社に通って水垢離(水をかぶって神仏に祈願すること)をし、回復を祈りました。父の祈りが通じたのか、その後海舟は命を取り留め、元気を回復しました。

 

海舟が15歳のとき、初之丞がいよいよ家督を継ぐことになりましたが、病気のため急死してしまいます。初之丞の死と共に、海舟の出仕の話も消えてしまいました。

辞書を書き写す

海舟は9歳のときから、親戚にあたる直心影流の剣術家、男谷信友に剣術を習っていました。16歳になり、男谷の高弟である島田虎之介の弟子になった海舟は、島田から「これからは剣術よりも西洋式兵術の時代だ」と言われ、蘭学を学ぶことを決意します。

 

オランダ語を学ぶには『ヅーフ・ハルマ』という蘭和辞書が必要ですが、貧しい海舟には高価な辞書を買うお金はありません。海舟は辞書を所有している人を探し、辞書を書き写させてもらえるよう頼みました。分厚い辞書を書き写すのは大変な作業ですが、海舟は貧しさの中で粛々と書き写しを進め、1年かけて二部の写本をつくりました。海舟はそのうち1部を自分の勉強に使い、もう一部を売って辞書の借用料などに充てました。

坂本龍馬が初対面で弟子入りを願う

1862年、赤坂元氷川の海舟宅に二人の若者が訪ねてきました。北辰一刀流千葉道場の跡取りである千葉重太郎と坂本龍馬とです。

海舟は二人の顔を見るなり、「俺を切りに来たんだろう」と喝破しました。たじろぐ二人に海舟は、訪米で得た経験と知識を話し、攘夷か開国かで争うよりも外に目を向け、海防を充実することの必要性を説きました。

 

海舟の話に感銘を受けた二人は、その場で海舟の弟子になりたいと申し出ました。龍馬は姉の乙女あての手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛し、大先生の弟子になったと誇らしげに報告しています。

「瘦せ我慢の説」で福沢諭吉に非難される

海舟は幕臣の身でありながら薩長に協力して江戸城を明け渡し、没落する旧幕臣をよそに新政府でも要職を歴任し、伯爵にまで叙せられています。

 

ある意味要領よく生きた海舟をよく思わない人もたくさんいました。咸臨丸で海舟と共にアメリカに渡った経験を持つ福沢諭吉もその一人です。福沢は、忠君愛国の情を「やせ我慢」と表現し、海舟や榎本武揚は幕府へのやせ我慢の情がなかったとする論説「瘦我慢の説」を新聞紙上で発表しました。

 

福沢から反論を促された海舟は、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らずと存じ候(人の出処進退は自分自身で決するもの。他人が何といっても自分とは関わりのないこと)」と答えています。

旧主君の慶喜のために尽力

大政奉還後も、官軍側には旧将軍の慶喜に厳しい処分をという声がありました。海舟は官軍側には交渉の難敵とみられ、幕府側には薩長の手先とみなされるという板挟みの苦しい状況にありながら、慶喜の助命嘆願に奔走しました。海舟の尽力もあって慶喜は厳罰を免れ、平穏な生活を送ることができました。

 

維新後も慶喜と海舟との縁は続きます。1898年には慶喜と明治天皇との対面が実現しますが、参内の翌日に慶喜は海舟のもとへ挨拶に行っています。当時慶喜は無爵無役で、海舟は伯爵で枢密顧問官だったとはいえ、元将軍が元幕臣の家を訪れるのは異例なことでした。

 

また、海舟の長男・子鹿が早世したため、慶喜の十男・精(くわし)が小鹿の長女・伊代の婿に入り、勝家を継ぎました

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勝海舟が行った偉業や政策

出典:Wikipedia

咸臨丸でアメリカ渡航

1858年に日米修好通商条約に結ばれ、翌59年にアメリカへ批准使節を送ることになりました。使節はアメリカの軍艦ポーハタン号に乗艦し、長崎海軍伝習所の練習艦だった洋式軍艦「咸臨丸」がそれに随伴しました。咸臨丸には、ジョン万次郎こと中浜万次郎や福沢諭吉らも同乗していました。

 

海舟は咸臨丸の指揮者として、日本の船として初めて太平洋の往復を成功させました

 

海軍創設に貢献

1853年にアメリカ大統領からの国書を携えたペリー提督が来航した際、幕府は対応について諸大名や幕臣に意見を求めました。海舟も「海防意見書」を提出し、軍艦製造の必要性や西洋式兵術の教練校をつくる必要性を訴えました。

 

海舟の意見を評価した幕府は、海舟を下田取締掛手付として採用し、次いで長崎海軍伝習所の生徒監に任じました。伝習所には幕府をはじめ諸藩からの伝習生が集まり、オランダ人の教官から数学、航海術、地理学、気象学などを学び、軍艦操縦の実地訓練も行いました。オランダ語ができた海舟は教官と生徒の橋渡しの役割を果たし、日本の海軍創設に大きく貢献しました。

 

1863年、幕府の軍艦に将軍家茂を乗せて視察を行った際、海舟は神戸に海軍操練所を設立することを願い出ました。家茂の許可を得た海舟は、操練所の設立準備を進める傍ら私塾を開き、坂本龍馬ら塾生に軍艦の操縦や航海術などを教えました。

 

江戸無血開城

1868年、王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府の廃止と新政府の樹立が宣言されました。旧幕府軍・会津桑名藩の兵と、薩摩長州の官軍の間に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、錦の御旗を掲げた官軍が優勢となって江戸へ攻め上ってくるという情報がもたらされました。

 

江戸では、官軍を迎え撃つか、平和的に交渉するか激しい議論が交わされました。最終的に和平交渉という方向性が決まり、陸軍総裁に任じられた海舟が薩摩との交渉にあたりました

 

朝廷から慶喜征討の勅令が出される厳しい状況のなか、海舟は西郷隆盛と会談を行いました。当初、江戸城や軍艦、武器の引き渡しや慶喜の備前藩お預け処分など厳しい和平条件を突きつけてきた西郷でしたが、海舟の説得により次第に態度を軟化させていきました。そしてついに、海舟は江戸城攻撃を中止するという約束をとりつけることに成功しました。海舟の冷静で粘り強い説得が、江戸の町を戦禍から守ったのです。

勝海舟の名言

出典:Wikipedia

 

  • 人間は、難局に当たってびくとも動かぬ度胸がなくては、とても大事を負担することはできない。今のやつらは、ややもすれば、知恵をもって一時のがれに難関を切り抜けようとするけれども、知恵には尽きるときがあるから、それはどうてい無益だ。
  • いわゆる心を明鏡止水のごとくとぎすましておきさえすれば、いついかなる事変が襲うてきても、それに処する方法は、自然と胸に浮かんでくる。いわゆる物来たりて順応するのだ。おれは昔からこの流儀でもって、種々の難局を切り抜けてきたのだ。
  • 天下は、大活物だ。区々たる没学問や小知識では、とても治めていくことはできぬ。世間の風霜に打たれ、人生の酸味をなめ、世態の妙をうがち、人情の微をきわめて、しかるのち、ともに経世の要務を談ずることができるのだ。
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勝海舟にゆかりの地

出典:Wikipedia

東京都大田区の洗足池湖畔には、海舟の別邸「千束軒(洗足軒)」がありました。勝海舟は夫人の民子と共に、洗足池公園内にある墓に葬られています

 

海舟は正妻である民子のほか、複数の女性との間に子供をもうけていたためか、民子は死去する際に、海舟と同じ墓には入りたくない、早世した長男の小鹿と一緒に葬ってほしいと遺言しました。そのため当初は海舟と民子は洗足池湖畔と青山霊園に別々に葬られていましたが、第二次大戦後に洗足池湖畔に夫妻の墓が建てられました。墓には「海舟」とだけ刻まれています。

近くには、海舟が西郷隆盛を追悼するために建立した留魂碑や西郷を祭神とする留魂祠などもあります

記念館・資料館

1933年に建てられた国登録有形文化財の旧清明文庫を利用して、令和元年に大田区立勝海舟記念館が開館しました

 

海舟の功績や大田区との関連を示す史料が紹介されています。また、洗足池の近くにある大田区立洗足池図書館には勝海舟の特設コーナーがあり、関連書籍が展示されています。

 

勝海舟の妻や子供、子孫について

出典:Wikipedia

 

海舟は二歳年上の正妻、民子との間に二男二女(長女:内田夢、次女:疋田孝子、長男:小鹿、次男:史郎)をもうけました。

 

他に、愛人の梶玖磨が三男の梶梅太郎、増田糸が三女の逸子、小西かねが四男の義徴をそれぞれ生みました。逸子は専修大学の創立者、目賀田種太郎に嫁ぎました

長男の小鹿はアメリカに留学してアナポリスの海軍兵学校を卒業し、帰国後に海軍少佐となりました。小鹿が39歳で父に先立ち病没したため、徳川慶喜の十男・精(くわし)が養嗣子に迎えられました

参考文献

『勝海舟と江戸東京』(樋口雄彦/吉川弘文館)

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『勝海舟 氷川清話の知恵』(加来耕三/PHP研究所)

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