菅原道真は学問の神様として祀られています。ありがたい存在ですが、日本三大怨霊にも数えられる人物でもあります。今回は菅原道真の生涯、名言、逸話について紹介していきます。
目次
菅原道真とは?
菅原道真は平安時代の貴族、学者です。宇多天皇の治世を支え、後に右大臣まで登り詰めますが、藤原時平に無実の罪を着せられます。太宰府に左遷され、失意の内に亡くなりました。
死後に天変地異がおきたり、関係者が亡くなった事から怨霊とされました。菅原道真の祟りを恐れ、天神信仰が全国で広がる事になります。
出身地
出身地は諸説あります。
- 奈良県菅原町説
- 菅大寺神社(京都市下京区)説
- 菅原院天満宮(京都市上京区)説
- 吉祥院天満宮(京都市南区)説
- 菅生神社(堺市美原区)説
- 菅生寺(奈良県吉野町)説
- 菅原天満宮(松江市)説
と各寺院が主張しており、断定は困難です。
生没年月日
生年は承和12年6月25日(845年8月1日)です。
没年は延喜3年2月25日(903年3月26日)です。
別名
天神様・日本太政威徳天・火雷天神等と呼ばれています。
神号
死後に天満大自在天神と名付けられました。大自在天はバラモン教の大本尊です。この明王は牛に騎乗する姿で描かれる事が多く、菅原道真を祀っている天満宮では牛の像も祀られています。
官位
879年に従五位下に叙爵した後、899年には右大臣になりました。右大臣と左大臣では左大臣の方が役職は上です。
氏と家紋
菅原氏
菅原氏は古くは日本書紀に出てくる野見宿禰まで遡ります。野見宿禰を祖とする土岐氏の一族は平安時代より菅原邑に住んだ者がおり、以降菅原氏と名乗ります。菅原氏は土師古人の四男。清公が文章博士と言う役職となり、以後、代々学者を輩出した家柄となりました。
家紋
菅原氏の家紋は梅鉢です。梅の花を図案化したものであり、梅の花が中心から放射線状に配置した花弁が太鼓に似ている事が由来とされています。道真が梅鉢を家紋にしたのは、5歳の時から梅を愛していたからと言われています。天満宮の象徴として使われており、子孫とされる前田利家も梅鉢の家紋を使っています。
菅原道真の生涯と人生年表
年表
年 | 出来事 |
---|---|
承和12年(845年) | 誕生 |
貞観4年(862年) | 文章生となる |
貞観12年(870年) | 方略式の試験 |
元慶元年(877年) | 式部大輔と文章博士就任 |
元慶4年(880年) | 私塾を開く |
仁和4年(888年) | 阿衡事件 |
寛平5年(893年) | 公卿となる |
昌泰2年(899年) | 右大臣となる |
昌泰4年(901年) | 左遷される |
延喜3年(904年) | 左遷先で死去 |
順調な出世
道真は幼少期より頭が良く、詩や歌の才能を発揮。18歳には文章生(大学寮で漢詩文・史書を学ぶ学生で、式部省の試験に合格した者)になります。役人の仲間入りですね。
874年には従五位下(貴族の仲間入りの地位)と、兵部大輔(軍事防衛を取り仕切る機関)、式部大輔(財政や租税を取り仕切る機関)となります。
877年には文章博士に就任。漢文学、中国史の大学教授的な立場です。880年に父が亡くなった後に私塾を開催。朝廷内の文人社会の中心的な存在になります。
天皇の信頼を得る
887年、光孝天皇が崩御。次期天皇として宇多天皇が即位。この頃藤原家は道長頼通等の最盛期程でなく、権力を狙っている段階でした。
翌年、光孝天皇在位時に絶大な権力を持っていた藤原基経と、宇多天皇の部下の橘広相との間で、阿衡という職を巡り揉め事が起こります(阿衡事件)。道真はこの事件を見事に収め、宇多天皇の信任を得ます。
891年には藤原基経が死去。基経には時平と言う息子がいましたが、20歳前後と言う事で一旦藤原家の権勢は衰えます。宇多天皇はその隙に天皇親政を開始しようと道真を登用します。
二年後に道真は公卿になり、894年には遣唐大使に任命。その際に遣唐使の廃止を提言。その後も897年には権大納言と右近衛大将の兼務と出世を重ねます。同時期に藤原時平は大納言と左手近衛大将となり、この2人が朝廷のトップになります。
道真の左遷
897年7月宇多天皇が退位し、醍醐天皇が即位。宇多天皇は道真の補助に回り、時平との政争や政治を道真に丸投げします。宇多天皇はその後も権力を持ち続け、899年には道真は右大臣、時平は左大臣となります。
道真の家格からは考えられない出世であり、快く思ってなかった貴族もいましたが、宇多天皇がいた為に何も言えませんでした。10月になり宇多天皇は突如出家。道真は後ろ盾を失います。時平と反道真派は結託して、道真の失脚を狙います。
901年に時平は醍醐天皇に「道真が醍醐天皇を退位させ、自身の娘婿を即位させようと企んでいる」と密告。道真は太宰府に左遷されます。
密告を知った宇多上皇は醍醐天皇に話を聞こうとしますが、時平の工作により断念。宇多上皇の協力出来ず、道真は政治闘争に破れたのでした。一連の流れを昌泰の変と言います。
菅原道真の死因
左遷先では太宰員外帥と言う役職になりますが、左遷用の職で給与も従者もありません。2年後、失意の内に亡くなります。死因は分かりませんが、飢えをしのぐ生活だったので、無理がたたっていたのでしょう。
「異国で亡くなった場合、遺骨を故郷に返す習わしだが、私は思う事があるのでそれを望まない」と遺言にあり、遺体は太宰府に葬られます。
この左遷ですが、道真が醍醐天皇の退位を迫った様子はなく、時平の嘘に醍醐天皇が騙されたと言うのが通説です。
他には宇多上皇と醍醐天皇は仲が悪く、醍醐天皇が時平と結託して、宇多天皇の側近だった道真を追放したと言う説もあります。
どちらにせよ道真はとばっちりで左遷となり、不遇な最期だったのは間違いありません。
菅原道真の人物エピソード
試験問題
方略式という試験。当時の国家試験の中で、最も難しいものでした。230年に渡り試験は開催されますが、合格者はたった65人。
試験内容ですが「氏族を明らかにする」「地震とは何か?何で起こるのか?」の選択制。道真は地震問題を選びます。
870年に試験を受けていますが、前年には宮城が大津波にあい、前々年は京都にM7の地震が起きています。つまり時事問題です。
問題に対し、菅原道真は儒教、道教、仏教の3つを駆使して論じます。試験管は文章はうまくまとめているようだが強引にこじつけているにすぎない と辛口コメントでした。
中の上で合格しており、他の合格者多くが中の上なので、道真が特別悪かったわけではありません。ただ本人は悔しかったようで、バネに勉強に励んだようです。
菅原道真の逸話と功績
平安時代は藤原家が最盛期を迎えますが、宇多天皇の時期は藤原家の勢力が弱く、天皇親政を行なっていました。阿衡事件を収束させた手腕もさる事ながら、遣唐使派遣の中止の建議、権門(有力貴族や寺社)を抑制、小農民の保護等、現在から見ても良いと言える政治をしています。
この時代は寛平の治と言われています。後醍醐天皇は醍醐天皇に憧れていましたが、殆どが寛平の治の延長に過ぎないと言われています。
天皇が直接政治を行えたのは道真の功績と言えるでしょう。
また和歌にも嗜み、自らの歌を集めた菅原文草や六国史の1つの日本三代実録の編者でもあります。
菅原道真が学問の神様と言われる理由
失意の内に死去した道真ですが、その後京都では不穏な事が起こります。
藤原時平 909年に39歳で病死
源光(道眞失脚の首謀者) 913年 鷹狩の最中に溺死
醍醐天皇の息子が923年、孫が925年に病死
清涼殿に落雷が起き、道真の監視役を含めた多数が死亡(清涼殿落雷事件)(930年)
それをみた醍醐天皇が体調を崩し3ヶ月後に崩御
一連の出来事を道真の怨霊と恐れた為に京都に北野天満宮が、太宰府には安楽寺天満宮が建立されます。以後災害が起こる度に道真の祟りと恐れられるようになり、全国に天神思想が広がりました。
祟りはその人が無念であったり、無実だった時に、それを陥れた人々が後ろめたさを感じる時に現れます。醍醐天皇が体調を崩したという事は、道真に対して後ろめたい事があったのでしょうね。やはり、時平とグルになって道真を陥れたのでしょうか。真相は闇の中です。
後には時平達の死や、災害の記憶が風化されていき、道真は祟りの存在ではなく、優れた学者だったと言う面が強調されます。現在では道真は学問の神様と言うイメージが強いですが、元は怨霊と言うの意味合いが強かったのです。
菅原道真の名言
流れ行く われはみくづと 成りぬとも 君しがらみと なりてとどめよ
意味:太宰府に流れる私は水屑となるとしても、どうかしがらみとなってこの流れをせきとめてください
東風吹かばにほひおこせよ梅の花、主なしとて春を忘れそ
意味:東の風が吹いたならばその香りを思い出してくれ。主がいないからと咲く春を忘れないで。
太宰府へと左遷されなさったとき、家の梅の花をご覧になって詠んだ歌です。道真の無念か伝わってきます。
未だ曾て邪は正に勝たず。
邪心は正義に勝った事はない。もし時平の讒言が嘘であり、道真が無実だったならば、道真は正義だったという事になります。彼は身をもってこの名言を証明した事になりますね。
勉強にしろ、仕事にしろ、
誠心誠意の努力をするならば、
祈らなくても、神は守ってくださる。
努力をすれば、祈らなくても神はその人を見ている。道真は勉強に勉強を重ね、右大臣まで上り詰めました。そこには勿論誠心誠意頑張った事でしょう。学問の神様らしい名言です。
菅原道真にゆかりの地
神社
菅原道真を祀った神社は天満神社もしくは菅原神社と呼ばれ、全国に沢山あります。天満とは道真が死後に天満大自在天神と名付けられた事に由来しています。
祟りを鎮める為の神社でしたが、今では偉大な学者だった道真にあやかろうと多くの受験生が訪れます。全国に1万2000あると言われここには書ききれません。今回は本家と呼ばれる2つの天満宮を紹介します。
太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
道真の遺徳(亡くなった人の人徳)を讃える神社です。905年に廟が建立され、前身である安楽寺天満宮が創始されました。その後祟りが起こるようになり、919年に社殿が作られ、現在の天満宮となりました。こちらは醍醐天皇が道真に対して特に恐れていた為作られたようです。
北野天満宮(京都市上京区)
こちらは道真の怨霊を恐れて作られた神社です。全国の天満宮ほぼ北野天満宮と同じく怨霊を鎮める目的で作られています。道真の死後20年目に朝廷は道真の左遷を撤回。947年に社殿を作ります。後に時平の甥の藤原時輔が壮大な社殿に作りかえます。
約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられています。また道真は牛と関連か深い事から、神の使いとされる牛の像が多数置かれています。
成り立ちは違えど、どちらも総本山を名乗っています。総本山は1つとは限らず、複数箇所が名乗っても問題はありません。
墓
道真は前述した通り、京都に遺骨はありません。牛が動かなくなったところを私の墓とせよと遺言を残しています。道真の死体は牛が運んでいましたが、牛は疲れてしまったのか、とある場所で横たわりました。遺言通りそこが墓になり、後にその場所は太宰府天満宮となりました。
つまり太宰府天満宮=道真の墓ですね。
一応道真の3男が現在の茨城に赴任した時に遺骨を祀ったとされる羽鳥天神塚古墳も墓として存在しています。
記念碑・記念館
道真の記念碑は神社同様沢山あります。
- 福岡市中央区警固にあり、道真が太宰府に行く途中に立ち寄ったとされる菅原神社
- 鹿児島県出水市荘の荘下集落の菅原神社
- 奈良県菅原地区で道真生誕の地と言われる(確証なし)天神堀遺跡 等
全国各地に道真の記念碑は建てられています。
菅公歴史館
こちらは太宰府天満宮の御本殿裏の崇敬者会館地下1階にあります。道真公の一生を、貴重な装着博多人形を交えて分かりやすく学ぶ事が出来ます。天満宮を訪れた時は是非こちらも見に行きましょう。
菅原道真の妻や子供、子孫について
妻
島田宣来子
道真の正室です。嫡男の菅原高視や宇多天皇の女御である衍子を産んだとされます。道真左遷後も京都に残ったそうですが、その後は不明です。
その他側室も多くいたようですが、名前など正確な事は分かっていません。
子ども 子孫について
道真は実に15人程の子どもがいました。道真が左遷された際に共に地方に左遷されています。名前は残っていても子ども達のその後はあまり分かっていません。
菅原高視
道真の嫡男です。道真の死去後906年に京都に戻ります。帰京して大学頭に復して従五位上に叙せられますが、38歳でこの世を去ります。
彼は文時や雅規等多くの子孫を残しています。一族の中には更級日記の作者である菅原孝標女がいます。
後に
- 高辻家
- 唐橋家
- 五条家
- 東坊城家
- 清岡家
- 桑原家
と言う六家が誕生。
高辻家は現在太宰府天満宮の社家として続いています。
菅原衍子
正室の子。宇多天皇の女御として嫁いでおり、道真も藤原摂関家のように天皇と婚姻関係を結んでいたようです。
子孫は源順子→藤原実頼と続きます。一族の中には小右記を書き記した藤原実資を輩出する等、文学に優れた人が多かったようです。
子孫とされる人物
系譜は不明ですが前田利家や篤姫、大隈重信等、歴史上の有名人にも、道真の子孫と言われる人物がいます。15人も子どもがいたので、私達の中にも道真の血は流れているかもしれません。
菅原道真を題材にした作品
小説
三田誠広の菅原道真 見果てぬ夢
澤田鐘子 泣くな道真-太宰府のうた-
やはり太宰府に左遷されると言う悲劇性が小説の題材としては良いのかもしれません。
ドラマ・映画
道真を題材にしたドラマや映画は今のところありません。近い時代では安倍晴明がありますが、藤原時輔が出てくるだけです。いつか大河ドラマでも題材になると良いですね。
本
今 秀人 摂関政治と菅原道真
当時の藤原家の摂関政治と、それに対立する道真について考察した本。道真も実際に宇多天皇の子息に自分の娘を嫁がせており、当時の情勢について書かれています。
滝川幸司 菅原道真-学者政治家の栄光と没落-
2019年9月に発売。最新の研究で判明した事実もあり、道真について学ぶならオススメです。
道真については人物像の他、怨霊信仰の成り立ちや天神思想、摂関家との関わり等、日本史を語る上で重要なキーパーソンなので、沢山の本があります。皆さんも道真について学びましょう。
漫画
応天の門
菅原道真と在原業平が主人公となり、平安京を中心に巻き起こる怪奇事件を解決する漫画です。藤原良房等の藤原家や、伴善男等、歴史で習ったような人物も登場しており、歴史物として読む事も出来ます。
参考文献
今 秀人 摂関政治と菅原道真
滝川幸司 菅原道真-学者政治家の栄光と没落-