篤姫は薩摩藩島津一門の家に生まれ、江戸幕府第13代将軍・徳
川家定の正室になった女性です。戊辰戦争では薩長率いる新政府に「徳川家の存続」を求める等、幕末の重要局面で活躍しました。
幕末を舞台にした大河ドラマでは必ずと言って良いほど登場する篤姫ですが、その生涯や人物像については分からない人も多いのではないでしょうか。今回は篤姫の生涯や名言、その人物像に迫っていきます。
目次
篤姫とは?
氏名 | 源 篤子・藤原 敬子 |
---|---|
通称・あだ名 | 天璋院篤姫 |
出生日 | 天保6年(1835年)12月19日 |
出生地 | 薩摩国鹿児島城下上竜尾町(現・鹿児島市) |
死没日 | 明治16年(1883年)11月20日 |
死没地(亡くなった場所) | 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村(現在の東京都渋谷区千駄ヶ谷) |
死因 | 脳溢血 |
職業 | 大奥 |
身長 | 160cm(当時の身長は143cm) |
体重 | 不明 |
配偶者 | 徳川家定 |
篤姫の人生年表・生涯
篤姫の人生年表
年 | 出来事 |
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天保6年(1835年) | 篤姫誕生 |
嘉永6年(1853年) | 薩摩藩主・島津斉彬の養女になる |
安政3年(1856年) | 右大臣・近衛忠煕の養女となった後に、徳川家定の正室となる |
安政5年7月6日(1858年) | 島津斉彬と徳川家定が相次いで死去 |
文久2年(1862年) | 徳川家茂の正室として、皇族の和宮が大奥に入る |
慶応2年(1866年) | 大奥の改革をめぐり、徳川慶喜と対立 |
慶応4年(1868年) | 戊辰戦争において徳川の救済と慶喜の助命に尽力 |
明治16年(1883年) | 脳溢血で死去(享年49歳) |
篤姫の生涯①
篤姫は天保6年(1835年)12月19日に薩摩国の鹿児島城下上竜尾町で生まれました。幼名は一(かつ)と言いますが、その後に、市(いち)と名を変えています。篤姫の父親は薩摩藩主島津家の一門の1人である島津忠剛で、母親は薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫であるお幸でした。
篤姫は幼少期から怒るなどの不平不満を言う事がなく、寛大な心の持ち主でした。更に温和で、人との応対も上手な娘だったようです。
話は進み嘉永3年(1850)の事、徳川幕府から薩摩藩主・島津斉彬のもとに「年頃の娘がいれば徳川家定の正妻に迎え入れたい」と話がありました。当時の家定は27歳でしたが、正妻2人が相次いで死去。家定自身も脳性麻痺の疑いがあり、実子を授かるのが非常に難しい状況でした。家定以外の兄弟は既に死没しており、徳川将軍家としては家定に跡取りとなる後継者が生まれる事が急務だったのです。
実は徳川将軍家が薩摩の娘を正妻に迎えるのはこれが3度目。2回とも徳川家を後世に伝えており、徳川将軍家はそれにあやかろうとしたのでした。ただ斉彬には適齢の女児がおらず、島津一門の篤姫にその役が回ってきたのです。従来では島津斉彬が徳川家で権力を得るために篤姫を正室に送り込んだという説が濃厚でしたが、現在では否定的に見られています。
嘉永6年(1853年)に篤姫は斉彬の養女となり、8月には薩摩から江戸に入ります。ただ相手は徳川将軍家。家の格式が不足しているとして、側室になる可能性もありました。そのため篤姫は格式の高い家の娘という扱いにする為、安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、この時に篤君と改名。その年の11月にようやく家定の正室になったのです。
篤姫の生涯②
結論から言えば篤姫と家定の間に子供は生まれませんでした。家定は将軍就任後に更に容態は悪化。1857年頃にはそれが顕著になります。やがて将軍家の後継者として、井伊直弼らが推す血統の近い徳川慶福(後の徳川家茂)と、徳川斉昭や島津斉彬らが推す血統は遠いが聡明で知られる徳川慶喜が挙がり、争いは激化していきました。
家定は安政5年(1858年)に亡くなり、後継者は徳川慶福に決まります。慶福は家茂と名乗り、徳川家存続の為に家定の養子となりました。
家定と篤姫僅か1年9ヶ月の結婚生活でした。家定の死を経て篤姫は出家し、戒名として天璋院殿従三位敬順貞静大姉の名を得ており、天璋院と名乗っています。
後に幕府は公武合体政策をとり、文久2年(1862年)に家茂の正妻として孝明天皇の妹である和宮が迎え入れられます。篤姫と和宮は嫁姑という立場から対立しますが、両者は後に和解。慶応2年(1866年)に家茂が死去し、徳川慶喜が新たな将軍に就任した際に大奥改革を訴えた際には、2人で徹底的に対立しています。
幕末が風雲級を告げる中、慶応3年(1867年)に慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返上します。しかし程なく勃発した戊辰戦争で幕府軍は敗北が濃厚となり、薩長率いる新政府軍は徳川慶喜の断罪を命じる等、徳川将軍家は存亡の危機に立たされました。
この時に篤姫と静寛院宮(出家した和宮)は、島津家や朝廷に徳川将軍家の存続を嘆願。官軍の大将である西郷隆盛にも救済懇願の書状を人を介して渡しています。これは薩摩の娘であり、徳川家の人になった篤姫だからこそのパイプでした。天璋院の動きもあり、徳川家は戊辰戦争で敗北後も存続する事を許されました。
篤姫の生涯③
明治時代になると篤姫は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らします。薩摩に戻る事はなく、薩摩から支援金の要請もあったものの、それらを全て断っています。
規律や風紀に厳しい大奥と比べ、明治時代の篤姫は気ままな生活をしていたようです。旧幕臣や和宮と度々会っていた他、新たに徳川家の当主となった幼年の徳川家達に、英才教育や海外留学を命じていました。
その他には明治維新を経て廃止となった大奥の関係者や娘達の就職や縁談に奔走する等、「大奥達のその後」にも気を配っていました。篤姫は明治の世になっても「自分は徳川家の人間」だったのです。
篤姫の死因と最期
篤姫の死因は脳溢血です。篤姫が脳溢血で倒れたのは明治16年(1883年)11月13日の事で、場所は篤姫が住んでいた徳川宗家邸でした。篤姫はそのまま意識が戻らず、11月20日に49歳で亡くなったのです。葬儀には1万人もの参列者が集まり、その様子は「天璋院葬送之図」に描かれています。
江戸時代から15年が経った後でも、篤姫に対する尊敬は少しも衰えていなかったのです。
篤姫の性格と人物像エピソード
責任感の強い性格
幼少期の篤姫は怒ったり不平不満を言う事のない寛大な性格だったようです。その性格は優しさだけではなく、思う事があっても決して口に出さない「芯の強さ」からくるものだったのかもしれません。
篤姫の芯の強さは徳川一門に入ってからより強くなります。家定が亡くなった時、薩摩藩は一度篤姫に国許に戻るように打診していますが、篤姫はそれを拒否。あくまでも「徳川家の一員」という道を選んだのです。
明治時代には大奥に仕えた女性の就職や縁談に奔走しています。それらの資金の多くは篤姫の資産が当てられており、死後に残された資産はたったの3円(現在の6万円)でした。篤姫は最後まで「徳川家」としての責任を貫いたのでした。
嫁には厳しかった
ただその「芯の強さ」は時として、多くのトラブルも巻き起こしました。有名なのが和宮との嫁姑の争いです。和宮が家茂の正室として徳川家に入った時、家茂は家定の養子という事になっていた為、2人は嫁姑の関係にありました。
和宮は婚姻にあたり、今後の生活は皇室のしきたりである「御所風」で暮らす事を条件に挙げており、幕府も了承しています。ただ幕府はその事を大奥にいる篤姫達には告げていませんでした。公家と武家社会のしきたりの違いにより、両者は激しい争いを続けたのです。
これは単に篤姫が和宮をいびっていたのではなく、徳川家のしきたりを通そうとしたからでしょう。両者はやがて「徳川家のしきたり」ではなく「徳川家の存続」にむけて動き出すのです。
篤姫の逸話と凄さ
犬や猫が好きだった
篤姫は大の犬好きで、結婚前には狆(ちん)を多数飼っていました。ただ家定は犬嫌いだった為、大奥に入った後は猫を飼っていました。猫に対する愛情は大変深いものがあり、専用のアワビの貝殻型の食器を使用し、一緒に御前で食事をしていました。餌代は現在価格で250万円。世話係は3人もいました。
篤姫の動物に対する愛情は大変深いものがあったのですね。
無血開城
慶応4年(1868年)3月から4月にかけて旧幕府軍は江戸城を新政府軍に明け渡します。いわゆる江戸城無血開城です。これがスムーズに達成できたのは、徳川家の除名嘆願に奔走した篤姫の功績でした。当時の江戸は100万人を超える、世界最大規模の都市でした。
この地で大規模な戦乱が起これば、多くの江戸市民が命を失い、江戸は火の海になっていました。やがて江戸は東京と名を変えて、日本の首都となります。篤姫の嘆願により多くの江戸市民の命が救われると共に、明治政府が首都機能を東京にそのまま移行する事が出来たのです。
明治政府が近代国家へと変貌するにつれて、篤姫の凄さはより際立つようになりました。
篤姫の名言
それでも迷ったら考えるのをやめて、自分を信じて感じるがままに任せなさい。
人から信頼されたり尊敬を集めるには、相手の立場に立って物事を考える事が大切です。篤姫はそれが出来たからこそ、戊辰戦争の重要局面で助命嘆願に尽力出来たのです。
篤姫の家系図と子孫
篤姫の家系図
篤姫は由緒正しい薩摩藩島津家の一門です。父親の島津忠剛は今和泉領主・島津忠剛であり、彼の兄弟には篤姫を養子にした島津斉彬の父親である島津斉興もいました。つまり島津斉彬と篤姫は従兄弟の関係に当たります。
また篤姫の血筋を過去に遡っていけば、徳川家康にまでたどり着きます。家康は自分の血筋が絶えないように御三家を作った経緯もありました。そんな家康の子孫である篤姫が徳川家の存続に尽力したのはある意味で必然だったのです。
篤姫の子孫
結論から言えば篤姫と家定の間に子供は生まれず、篤姫の直接の子孫はいません。家定の養子になった家茂と和宮の間にも子供は出来ませんでした。
ただ篤姫は明治維新を経て徳川宗家を継いだ徳川家達の教育者的な立場に立ちます。家達は篤姫の教育もあり立派に成長し、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長も務めた他、一度は総理大臣候補に上がる事もありました。
養子などを経て徳川宗家は現在も続いています。現徳川宗家の当主は18代目の徳川家広氏です。血は繋がっておらずとも、篤姫が繋いだ徳川将軍家と篤姫は本当の子孫のようなものなのです。
篤姫のゆかりの地
寛永寺
寛永寺は東京上野に存在する天台宗関東総本山の寺院です。この地には篤姫のお墓の他に、徳川将軍である家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定のお墓も存在します。篤姫のお墓は夫・家定の隣にあります。歴代将軍の中で隣通りでお墓が建てられているのは、家定と篤姫、家茂と和宮だけです。
参拝者も多いものの、篤姫と家定のお墓は柵の中にあり、普段は非公式となっています。一般公開される時は事前に告知があるので、興味のある方はそのタイミングを見計らって寛永寺に行くようにしましょう。
住所:東京都台東区上野桜木1-14-11
篤姫の関連人物
和宮
和宮は前述した通り、14代将軍家茂の正妻です。篤姫にとっては嫁の立場に当たります。激しい嫁姑のバトルを繰り広げた事は先程解説しましたが、後に和解して良好な関係を築きました。
明治期に入っても関係は良好で、2人は度々会っています。旧幕臣である勝海舟の邸宅を2人で訪れた時には「お櫃のご飯をどちらがよそうか」という事で喧嘩となり、勝海舟がしゃもじをもう一つ持ってきたという微笑ましい話も残っているのです。
和宮は明治10年(1877年)に体調を崩し、箱根の塔ノ沢で療養生活を送ります。篤姫は和宮を見舞うために箱根を訪れますが、これが生涯最後の旅行となりました。ただ箱根に向かう途中で和宮は薨去した為、篤姫は和宮を弔い、和歌を贈っています。
徳川家定
徳川家定は13代将軍であり篤姫の夫です。幕末の大河ドラマでも頻繁に登場し、大河ドラマ・篤姫でもキーパーソンとして登場しました。ドラマの徳川家定は周囲から愚鈍と思われつつも、それは「人間不信に陥った故の演技」であり、実は聡明な一面も覗かせていました。ドラマでは篤姫は徳川家定に深い愛情を持つに至っています。
ただ実際のところ、夫婦仲については良くわかっていません。徳川家定は篤姫と婚姻した時点で状態はかなり悪くなっており、篤姫のいる大奥に訪れる事はほとんどありませんでした。(月に1〜2回ほど)。夫婦仲が良い悪いではなく、判断する資料に乏しいというのが現状です。
一応家定が篤姫の事を思っているエピソードとして、ペリー が家定宛に多数の献上品を貰った事があり、その時に貰ったミシンを篤姫にプレゼントした逸話が伝わっています。そんか経緯から、篤姫は日本で初めてミシンを使った女性と言われているのです。
夫婦仲を示す新たな資料が発見されると良いですね。
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まとめ
今回は篤姫の生涯について解説しました。薩摩藩島津家の一門に生まれながら、徳川家の女性として生きる事になった篤姫。その生涯はとても数奇なものでした。篤姫が女性を中心に今でも強い支持を得ているのは、篤姫の持つ力強さと運命を切り開く芯の強さにあるのかもしれません。
今回の記事を通じて篤姫の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
- 最後の大奥 天璋院篤姫と和宮 鈴木由紀子
- https://ja.m.wikipedia.org/wiki/天璋院